概要
中ソ対立(ちゅうそたいりつ、ロシア語:Советско–китайский раскол、中国語:中苏交恶、英語:Sino-Soviet split)は、1956年2月以降続いた中国とソ連の対立状態の事である。最初は政党間の理論・路線の対立だったが、次第にイデオロギー・軍事・政治に至るまで広がった。
歴史
対立の始まり
1947年3月にアメリカとソ連の対立は冷戦となって発生し、中国とソ連は同じ社会主義共和国として協力した。1950年2月に中ソ友好同盟相互援助条約が締結されていたが、1980年4月に失効した。1956年2月に開催された第20回党大会で、フルシチョフはスターリンの独裁政治・権威主義・個人崇拝を否定する「スターリン批判」を展開し、西側陣営との平和共存論を提唱した。
毛沢東はフルシチョフの考えを「修正主義」と批判し、スターリン批判での独裁制否定の影響が自らの国に及べば、自身の独裁政治が国内から批判されると恐れていた。これ以後は国家規模で中ソ両国は共産主義思想の方針の不一致へと発展し、その後は両国の交流の断絶・条約の破棄などが続き、同じ陣営でありながら対立する状況となった。それまでの「米ソ冷戦」という2極対立の構図が、中ソ両国の不和によって複雑な多極化へと変化した。
継続する対立
1962年10月のキューバ危機・1968年1月のプラハの春などで、中国はソ連の行動を批判した。1969年3月には国境沿いに位置するダマンスキー島を巡って中ソ国境紛争が発生し、同じ陣営同士での核戦争が開幕する恐れもあった。ベトナム戦争でアメリカが南ベトナムの支援に参戦すると、中ソ両国も北ベトナムを支援したが、結局協力せずに支援合戦の状態になった。
中国はソ連を牽制すべく西側諸国の盟主たるアメリカに接近し、1971年10月に国際連合総会決議で中華民国と安保理常任理事国を交代した。1979年1月に米中両国は外交関係を樹立したが、米中接近によって北ベトナムは友邦国が敵対国と関係改善を果たした。それによって北ベトナムの外交は親ソ派になり、1975年4月に北ベトナムの勝利で統一を果たした。
1978年1月にベトナムがカンボジアで恐怖政治を実行するポル・ポト政権を攻撃し、1979年1月に独裁政権を終わらせたが、この戦争は親中派のポル・ポトと親ソ派のベトナムが戦う東側陣営同士の代理戦争の様相を呈した。同年2月に中国はベトナムを支援の恩を裏切ったと見なして侵攻する中越戦争が発生し、中国の侵攻を受けてベトナムはこれを返り討ちにした。
対立の鎮静化
1978年12月に中国で鄧小平が改革開放路線を進め、1987年1月にゴルバチョフはペレストロイカを開始した。この両者の時代になって関係改善の努力が取られ、1989年5月にゴルバチョフが中国を訪問した事により、30年ぶりに中ソ両国は外交関係を回復した。同年6月に中国では天安門事件が発生し、ペレストロイカを進めていたゴルバチョフの訪問によって民主化運動はより活発化し、1991年12月にソ連が崩壊して対立に終止符が打たれた。
その後の中露関係
1991年8月にクーデターが失敗に終わって同年12月にソ連は崩壊し、その後は後継国としてロシア連邦が成立して冷戦は終結した。エリツィン政権での不況となってアメリカに対する敵対感情が強まり、プーチン政権で資源の開発や軍拡などで超大国に返り咲こうとした。ブッシュ政権のアメリカとアフガニスタン紛争・イラク戦争で対立し、他にもウクライナに対して圧力を強めた。
中国は市場経済を導入しながら未だに党の一党独裁を継続し、1997年7月に香港が返還されるのを前後して経済発展が進んだ。国内に格差が拡大した一方で、軍拡によって極東・東南アジアに対して覇権の拡大を進めた。2001年7月に中露善隣友好協力条約が締結されると、先述の中ソ友好同盟相互援助条約に取って代わり、両国関係を発展させる基礎となった。
中露両国の動きにオバマ政権のアメリカはヨーロッパ・アジア方面で権勢するが、ISの活動・2008年9月のリーマンショック・2010年12月のアラブの春に乗じ、胡錦濤・習近平の中国はさらに海洋進出を拡大させた。ロシアはシリア内戦にISを打倒するべくアサド政権側に与して参戦し、中東で台頭するイランと中国・ロシアは両国関係を強化してアメリカを牽制している。
ロシア・ウクライナ戦争
2022年2月にロシアはウクライナに侵攻し、この戦争で疲弊するロシアは経済・技術・外交もこれまで以上に中国に頼らざるを得ない状況になり、現在のロシアはあらゆる面で中国にすがる側となっている。しかしロシアは依然として世界最大の核保有国にして食糧・エネルギー生産国である為、現状としては中国の属国と呼ぶ事はまだ出来ない。アメリカが主導する世界秩序に対抗する中国にとって、ロシアは今でも戦略的に必要な存在と言える。
対立の影響
共産主義陣営では殆どがソ連と友好関係にある国だった。
アルバニア
数少ない中国と友好関係にあった国で、1971年10月に国際連合総会決議で中華民国を追放させた国である。1976年9月に毛沢東党主席が死去した後は中国との両国関係は悪化して孤立する。
北朝鮮
中ソ関係・両国の内情を見て、双方共に等距離の友好関係を築いた。思想方針に至っては金日成が提唱した独自路線である「主体思想」を中心とした。
ルーマニア
中ソ双方と友好関係を築きながら、西側諸国に接近して支援金を引き出した。
アフガニスタン
親ソ派のアフガニスタン民主共和国(アフガニスタン人民民主党政権)に対し、親中派のアフガニスタン共産党・アフガニスタン解放機構がムジャヒディンと共にゲリラ戦を行った。
エチオピア
アフガニスタン同様親ソ派のエチオピア人民民主共和国(エチオピア労働者党政権)を、メレス・ゼナウィ率いるアルバニア派から、親中派のティグレ・マルクス・レーニン主義連盟を中核としたエチオピア人民革命民主戦線がゲリラ戦によって打倒し、現在の政府であるエチオピア連邦民主共和国を成立させた。その後敗北したエチオピア労働者党の残党は、南スーダンを拠点にエチオピア統一愛国者戦線を結成した。武力による政府転覆を掲げ、エチオピア連邦民主共和国政府に対するゲリラ戦を行っている。
日本
日本共産党が自主独立路線を掲げてソ連・中国双方と対立していた。そのため双方から破壊工作を受け、同時に親ソ派・親中派の新左翼党派が結成され、彼らの手による共産党員・民主青年同盟員への襲撃事件が多発した。一方で日本社会党では派閥が認められていた為、親ソ派・親中派が混在しており、双方とも概ね友好関係を維持した。