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概要

日本生産・調教の競走馬種牡馬

現役時代はダート両方で活躍した。

主な勝ち鞍はフェブラリーステークス(2005年)、デイリー杯2歳ステークス(2003年)など。

産駒にはダートの重賞勝利馬が多い。

母・ナイスレイズ

メイショウボーラーの母・ナイスレイズは1994年アメリカ生まれで、現役時代は12戦1勝。

牝系アルゼンチンで育まれたマイナーな血統だったが、人気種牡馬のストームキャットを父に持っていた。

当時の日の出牧場は繁殖牝馬を難産や病気で失うなど困難な時期で、鎌田博隆代表は良血の繁殖牝馬を求めてキーンランド・セールに赴き、予算の限界18万$を上回る20万$でナイスレイズを落札。

ナイスレイズは日本でアンブライドルズソングの仔を産んだ後、鎌田代表がシンジケートに出資していたタイキシャトルと連続して交配し、3番仔としてメイショウボーラーが誕生した。

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新たな光

いくど自信を打ち砕かれても

君の眼はまだ燃えている

けれど昂ぶりは少し抑えて

いまは冷静に考えるのだ

君が誇れるものは何だ

眠らせたままの力はないか

ひとつひとつかき集めて

ガッチリと組み合わせるのだ

そうして手に入れた光の束を

君はもういちど信じればいい

《「名馬の肖像」2023年フェブラリーステークス

略歴

2001年

4月16日、北海道浦河町の日の出牧場で誕生。父・タイキシャトル、母・ナイスレイズ(母父・ストームキャット)という血統であった。

ナイスレイズに注目していた白井寿昭調教師が預かることになる。

松本好雄が馬主となりボーラーハット山高帽)から「メイショウボーラー」と名付けられた。

2003年

栗東トレーニングセンターの白井寿昭厩舎に入厩。

7月20日、福永祐一騎手を鞍上に小倉競馬場の新馬戦(芝1000m)でデビューし1着。

8月9日、フェニックス賞オープン)に出走し1着。

9月7日、小倉2歳ステークスGⅢ)に出走し1着。重賞初勝利となった。

10月18日、デイリー杯2歳ステークス(GⅡ)に出走し1着。デビューから4連勝。

12月14日、オリビエ・ペリエ騎手に乗り替わり、朝日杯フューチュリティステークスGⅠ)に出走。コスモサンビームの2着に敗れ、2歳馬5勝の記録更新は成らなかった。

2004年

3月7日、福永祐一騎手に乗り替わり、弥生賞(GⅡ)で始動。ホッカイドウ競馬から参戦したコスモバルクの2着に敗れた。

4月18日、皐月賞(GⅠ)に出走し、ダイワメジャーの3着に敗れた。

5月9日、NHKマイルカップ(GⅠ)に出走し、キングカメハメハの3着に敗れた。

6月6日、安田記念(GⅠ)に出走し、ツルマルボーイの11着に敗れた。秋まで休養に入る。

10月30日、スワンステークス(GⅡ)に出走し、タマモホットプレイの3着に敗れた。

11月21日、マイルチャンピオンシップ(GⅠ)に出走し、デュランダルの7着に敗れた。

12月19日、中館英二騎手に乗り替わり、CBC賞(GⅡ)に出走し、プレシャスカフェの4着に敗れた。この年は重賞戦線で好走しながらも未勝利に終わった。松本は白井師の進言を聞き入れ、メイショウボーラーをダートに転向させる事とする。

2005年

1月9日、福永祐一騎手に乗り替わり、ガーネットステークス(GⅢ)で始動。ダート転向初戦で1着。

1月29日、根岸ステークス(GⅢ)に出走し1着。

2月20日、フェブラリーステークス(GⅠ)に出走し、GⅠ初勝利。フェブラリーステークスを逃げ切りで制したのはメイショウボーラーが初めてだった。

3月27日、芝に戻り、高松宮記念(GⅠ)に出走。アドマイヤマックスの16着に敗れた。

5月5日、ダートに戻り、かしわ記念(GⅠ)に出走し、ストロングブラッドの5着に敗れた。ベルテックスファーム放牧

白井師はアメリカのヴォスバーグステークス(GⅠ)出走を考え、8月30日から検疫に入る予定だったが、直前になって跛行が出て取り止めとなった。

11月3日、JBCスプリント(GⅠ)に出走し、ブルーコンコルドの4着に敗れた。

12月28日、横山典弘騎手に乗り替わり、兵庫ゴールドトロフィー(GⅢ)に出走。ニホンピロサートの2着に敗れた。

2006年

1月29日、福永祐一騎手に乗り替わり、根岸ステークスで始動。レース前に放馬して5000m近く疾走しており、リミットレスビッドの7着に敗れた。

2月19日、フェブラリーステークスに出走し、カネヒキリの15着に敗れた。

5月3日、かきつばた記念(GⅢ)に出走し、ロッキーアピールの4着に敗れた。

6月4日、芝に戻り、安田記念に出走し、ブリッシュラックの14着に敗れた。

8月15日、ダートに戻り、サマーチャンピオン(GⅢ)に出走し、メイショウバトラーの2着に敗れた。

9月10日、芝に戻り、セントウルステークス(GⅡ)に出走。ゲート入りに手間取り2分遅延し、シーイズトウショウの7着に敗れた。

10月1日、スプリンターズステークス(GⅠ)に出走し、テイクオーバーターゲットの2着に敗れた。

10月28日、スワンステークスに出走し、プリサイスマシーンの9着に敗れた。沙田競馬場香港)へ遠征する事となる。

12月10日、香港スプリント(GⅠ)に出走。スタートで出遅れてやる気を無くし、競走中止(1着はアブソルートチャンピオン)。

2007年

疝痛の発生、調教中の故障やゲート再審査などがあり、休養が長引いた。

9月10日、スプリンターズステークスに出走し、アストンマーチャンの15着に敗れた。

10月23日、競走馬登録を抹消し引退。2005年のフェブラリーステークス以降、勝利を挙げることはできなかった。

2008年

イーストスタッド(浦河町)で種牡馬となる。初年度から100頭を超える繁殖牝馬を集めた。

2012年

繁殖牝馬181頭を集め、種牡馬としてのキャリアのピークとなった。

2022年

種牡馬を引退。引退馬協会フォスターホースとなり、ひだか・ホース・フレンズ日高町)に移動し余生を送っている。

関連タグ

04世代 競走馬 種牡馬

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