三国志演義
三国時代の蜀漢の初代皇帝劉備に仕え、その軍事力の中枢を担った将軍五人の総称。
- 関羽…前将軍。桃園三兄弟の次兄。五虎大将筆頭。劉備と並ぶ指導者であり荊州に駐屯した。
- 張飛…右将軍。桃園三兄弟の末弟。最終官位は車騎将軍・司隷校尉。
- 趙雲…翊軍将軍。槍の達人として知られる古参の将。最終官位は中護軍・鎮軍将軍。
- 馬超…左将軍。涼州の雄。最終官位は5人の中で最も高く、驃騎将軍・涼州刺史。
- 黄忠…後将軍。老将として有名。益州平定の功労者。後将軍。
なぜこの五人かというと、正史「三国志」ではこの五人の伝が『蜀書第6巻 関張馬黄趙伝』として、1巻にまとめて記述されているからだとされている。
史実においては劉備が漢中王に即位した時点では関羽・張飛・馬超・黄忠がそれぞれ前後左右の将軍に任命されたのに趙雲はようやく雑号将軍の翊軍将軍に昇進したばかりであった。
もっとも魏延や李厳のように五虎将に劣らぬ実績を残した武将もいるが彼らは晩節を汚したため外され、晩節を汚した蜀将たちの伝である『蜀書第10巻 劉彭廖李劉魏楊伝』にまとめられている。趙雲は存命中こそ関羽・張飛・馬超・黄忠と比べて位はそこまで高くなかったが法正・諸葛亮・蒋琬・費禕・陳祗・夏侯覇・関羽・張飛・馬超・龐統・黄忠に次いで諡号を追贈される栄誉に浴していることから、かなりの名声を持っていたと考えられる。
また張飛・趙雲・馬超・黄忠は劉備の元にいたのに対し、関羽だけは荊州に残っていたのでが勢揃いしたことは1度も無い。
ちなみに蜀のライバル・魏において張遼・楽進・于禁・張郃・徐晃が「魏の五将軍(魏国五大将)」と称された。この五人も『魏書第17巻 張楽于張徐伝』として、1巻にまとめて記述されている。
呉については五虎将軍や五将軍に相当する記述がない。正史「三国志」では『呉書第10巻 程黄韓蔣周陳董甘凌徐潘璋丁伝』として程普・黄蓋・韓当・蒋欽・周泰・陳武・董襲・甘寧・凌統・徐盛・潘璋・丁奉の12人の将軍の伝が記載されている。強いて挙げるなら太史慈・黄蓋・程普が没し甘寧が健在である215年の合肥攻めの時点では甘寧・周泰・凌統・韓当・徐盛という意見もある。ちなみに太史慈は『呉書第4巻 劉繇太史慈士燮伝』に伝があり独立勢力だった劉繇や士燮と同じ扱いになっている。
水滸伝
梁山泊の軍において総頭領と軍師に次ぐ最高役職で軍人の中では最高位にある。なお全員が騎馬軍頭領である。
なお、五虎将に次いで「八驃騎」があり花栄、徐寧、楊志、索超、張清、朱仝、史進、穆弘らの騎馬軍頭領が任じられている。
隋唐演義
隋唐演義(厳密には隋唐演義を基にした二次創作)では李密配下の五人の将軍が五虎大将軍と呼ばれている。
- 秦叔宝(筆頭)
- 単雄信
- 王伯當
- 程知節
- 羅士信
李密は史実並びに作中で魏という国を建国するため、魏国五虎大将軍というこれがやりたかっただけだろな呼称となる。
ただし、史実ではこの五人が五虎大将軍と呼ばれた事は無い。