ラバウル航空隊
らばうるこうくうたい
航空隊「ラバウル航空隊」
草創期…ラバウルの占領と航空隊の進出
ラバウルは第一次世界大戦までドイツの統治下にあったが、1914年9月にオーストラリア軍が占領。その後オーストラリアにより統治されていた。
太平洋戦争中の1942年1月23日、オーストラリア軍やイギリス軍との戦闘の末に日本軍が占領する。
最初に進出したのは水上機部隊で、なんと占領翌日の24日には特設水上機母艦「聖川丸」によって水上機(恐らくは水上偵察機)が輸送されている。
31日には千歳航空隊の九六式艦上戦闘機16機(当初の予定では18機だったが、空輸途中で2機破損)がラバウルに到着した。
2月7日からは高雄海軍航空隊の一式陸上攻撃機からなる陸攻隊が到着、2月10日、千歳空分遣隊と高雄海軍航空隊陸攻隊で第四海軍航空隊(森玉司令)を新編。1942年2月14日、第二十四航空戦隊司令部が進出し、ここに「ラバウル航空隊」が誕生した。
2月20日にはラバウルに接近した米機動部隊を第四空の陸攻隊が攻撃しニューギニア沖海戦が生起。
攻撃に参加した陸攻17機の内15機が撃墜されるが、ラバウルへの空襲は阻止した。
黄金期…1942年
4月1日、第二十五航空戦隊が新編される。指揮下に台南海軍航空隊、四空、横浜空が入り、坂井三郎、西澤廣義といった名だたる搭乗員が名を連ねた。
ポートモレスビーの連合軍航空隊と激戦を交えたが、さしもの零戦やラバウルの猛者達もB-17には苦戦を強いられた。
1942年8月7日、ガダルカナル島に米軍が上陸し、ガダルカナル島の戦いが幕を開ける。ラバウルからは当日に早速船団への陸攻隊の攻撃、零戦隊による援護が行われたがこの日の戦闘で坂井三郎は左目に重傷を負い後に内地へ帰還する事になる。
その後も連日のようにガダルカナル島のヘンダーソン飛行場への爆撃が繰り返され、これは翌年2月に日本軍がガダルカナルから撤退するまで続いた。
激戦期…1943〜1944年
ガダルカナル島からの撤退後もポートモレスビーやニューギニア方面の連合軍航空隊との激闘が続いた。
3月3日、ニューギニア東南ラエへの陸軍部隊輸送作戦である「第八十一号作戦」(ビスマルク海海戦)の上空直掩を務めるが、連合軍航空部隊の攻撃により船団は駆逐艦4隻を残して全滅した。
B-17に対しては相変わらず苦戦が続いていたが、1943年5月20日に工藤重敏上飛曹が搭乗する十三試双発陸上戦闘機が斜銃で立て続けに2機のB-17を撃墜、その後小野了中尉も撃墜をし、その後も工藤らは戦果を重ねて、6月末にはB-17の撃墜数は9機にも達した。この戦果により、後に十三試双発陸上戦闘機は夜間戦闘機「月光」として採用されることになった。
1944年1月前後は、201空・204空・253空により連日数百機単位で来襲する連合軍機との死闘が繰り広げられた。
最も有名なのは1月17日の迎撃戦で、来襲した戦爆連合117機を零戦計79機が迎撃し、損害は被弾8機のみで撃墜69機(うち不確実17機)の大勝利を報告した。しかし、これは誤認戦果であり戦後の照会では米軍の被害は12機であった。米軍も日本機32機撃墜(うち不確実12機)と誤認報告したが、被撃墜(日本側の未帰還機)はなかった。
この日の空戦は現地に派遣されていた日本映画社の報道班員により撮影され、日本ニュース第194号「南海決戦場」として公開された。
この時期には日本側は50機前後で常時百機以上で来襲する連合軍機を迎え撃ち、連合軍側は日本側の迎撃機数を150機前後と誤認していた。
結局、ラバウル手強しと見た連合軍は攻略を諦め、海上封鎖により孤立させて迂回する戦術を取る事になる。
ラバウル航空隊の終焉…1944年後半以降
2月17日、米機動部隊がトラック諸島を空襲し、ラバウル向けの補給用零戦270機が地上破壊され、航空機は全滅した。
この損害を補うためにラバウルの11航艦および2航戦所属の全航空隊はトラック島へ後退することになった。2月20日、253空と2航戦の稼動全機(戦闘機約30機・陸攻数機)がトラック島へ後退、ラバウル航空隊の中核であった11航艦は、麾下の26航戦(751空を編入)が14航艦に転出した。204空と582空は解隊され、11航艦の下には25航戦(151空・251空・253空)が形式上は残ったが地上要員が主体となった。この時点で、ラバウル航空隊は実質的に終焉を迎えた。ラバウル航空隊の損失機数は、戦闘機1,467機、攻撃機1,199機、その他267機の計2,935機だった。
ただし、ラバウルから日本機が1機も残らず姿を消したわけではなく、3500名の整備兵や技術関係者が残されていた。彼らは、損傷した飛行機の修復や撃破された機体の残骸から復元を試みて1945年2月28日には零戦16機・夜戦1機を運用している。
その後も細々と夜間攻撃や偵察などの航空作戦に従事し1945年8月15日を迎えたのだった。終戦時に残存していた海軍機は攻撃機1機、戦闘機2機、水偵2機。このうち飛行可能状態の零戦二一型と陸軍の一〇〇式司令部偵察機はオーストラリア軍に、ブインの零戦二二型はニュージーランド空軍に接収された。
戦後1972年にニューブリテン島ランバート岬沖で第253海軍航空隊所属の吉沢徳重(徳三)上飛曹乗機が回収され、オーストラリアで修復の後日本大学の石松新太郎教授が購入、国立科学博物館での展示を経て同館広沢航空博物館(ザ・ヒロサワ・シティ)に所蔵されている。偵察用に複座に改造されている。
創作上におけるラバウル航空隊
零式艦上戦闘機が大活躍を遂げた戦場として知名度が高く、零戦を主体とした作品では必ずと言ってよいほど登場する。
また昭和期にはラバウル航空隊をモチーフにしたと思しき、南方の孤島に配属された零戦の精鋭部隊が活躍する作品も多く制作された。
第15話「ラバウル航空隊」の主題。
ラバウル航空隊で活躍した坂井三郎の自伝的小説。
主人公の宮部久蔵はミッドウェー海戦で母艦となる「赤城」を失った後ラバウル航空隊に転属する。
ラバウル航空隊の鬼隊長・若林大尉が米軍のエースパイロット、通称「イエロースネーク」と激闘を繰り広げる。
主人公の浜田正一はラバウルに進出、山本五十六の護衛任務を任されるが…
主人公の谷村中尉がラバウルからバルテ島に着任する。
主要な舞台となるのはブーゲンビル島だが、脚本の関沢新一がラバウルで経験した出来事をモチーフにしている。
川又千秋による架空戦記。史実と微妙に異なる形で進んだ太平洋戦争をラバウル航空隊の一搭乗員の目線で描く。
空母航空隊をラバウルに進出させる「い号作戦」が描かれる。