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人物編集

1920年6月2日生まれ。京都府出身。

1939年に京都にてアニメ映画の製作に携わった後、1941年に召集を受け南方に従軍。敗戦後の1946年に日本に帰還する。


蜂の巣プロに助監督として参加する傍ら、脚本家としても活動を始める。松竹映画『明日は日本晴れ』で脚本家としてデビュー。1956年の新東宝空飛ぶ円盤恐怖の襲撃』では監督も務めた。

1958年に映画『大怪獣バラン』に参加後、昭和ゴジラをはじめとした東宝特撮の多数の脚本を担当する。1961年の『モスラ』ではモスラの歌の作詞も担当。

東宝専属であったが、「長編マンガを書きたい」と会社側に熱望し、東映動画(現:東映アニメーション)で2本の脚本を執筆している。本来は契約違反にあたるが、東宝文芸部で大っぴらに宣言したことで止めようがなかったという。

ゴジラ映画の脚本執筆は『地球攻撃命令ゴジラ対ガイガン』までであるが、その後もプロットを提供し、「東宝チャンピオンまつり」を支えた。


ウルトラシリーズの脚本を担当した上原正三金城哲夫の師匠でもある。金城は沖縄に帰ってからも交流があり、仕事に行き詰まると酔って関沢に電話をかけていたという。また金城から沖縄を訪れるよう勧められた関沢は来訪を約束したが、金城の存命中に叶うことはなかった。

金城に頼まれて『ウルトラマン』では第1話の脚本を執筆したが、現場サイドから酷評されて金城がほとんど書き直すことになってしまった。自身もテレビドラマの脚本は書けないと語ったことがあり、『アゴン』を除けば円谷プロのドラマで1~2話ほどスポット参加したのみにとどまっている。


脚本業のほかに写真家としても活動しており、蒸気機関車の大ファンで線路が自宅の中を一周するHOゲージの大型レイアウトを製作、龍角散のCMでは本人とともに撮影されている。キネマ旬報社がSLブーム時に創刊した雑誌『蒸気機関車』の初代編集長も務めている。


1992年11月19日午前10時に自宅で心筋梗塞のため死去。享年72歳。


作風編集

テンポの良い掛け合いのようなセリフ回しが特徴。本人は関西出身なため漫才が根底にあると語っている。

文芸部時代に脚本家と携わることが多かった東宝プロデューサーの田中文雄は、彼は明るい人物であり、脚本もパーツ単位で組み替えられるカラッとした作りであったと証言している。書籍では、同時期に東宝特撮で活躍した馬淵薫木村武)が「ネガ」であるのに対し、関沢は「ポジ」であると評している。

脚本において大きさなどの具体的な数値を計算することはないといい、映画として絵になるかどうかを重要視している。SF設定も科学的な考証などは行っていない。また、映画は飛躍と省略であるといい、つじつまを合わせることよりもドラマを進行させシチュエーションを盛り上げることの重要性を語っている。映画脚本家としては、尺や予算も計算できるようになることが必要であると述べている。


特技監督の中野昭慶は、関沢の脚本は社会問題を取り入れてもっともらしく作るのがうまかったと評している。一方で、戦闘シーンはト書きで「大格闘よろしく」と書いてあるのみだったという。撮影監督の有川貞昌は、脚本で細かく書かれると特撮ではやりにくいため、すべて任せてもらえるのがありがたかったと述べている。関沢自身は、肝心な部分ではアクションも一応書いていたと述べている。

『モスラ』のインファント島をはじめ、関沢の作品では南海の孤島を舞台とするものが多い。これについては、それ以前の『空の大怪獣ラドン』や『大怪獣バラン』など山中や地底から怪獣が出現する作品が暗い雰囲気であったのに対し、ファンタジックで華やかな南の島は自身のネアカな性格に合っていたと述べており、自身が太平洋戦争中に訪れた南方や自身が愛好するムー大陸などの雰囲気などを反映している。

一方で、舞台設定は思いつきで浮かぶことが多いといい、具体的な位置などを示さず「南海の孤島」という漠然としたイメージに留めることで、お伽話における「昔々」や「あるところ」などのようなストーリーを展開させるための雰囲気作りを目的としていたことも語っている。

戦争映画でも『独立愚連隊西へ』や『ゼロ・ファイター大空戦』などで南方戦線での経験を活かした描写がみられる。


上述の通り鉄道ファンだったことから鉄道を映画に出すことが多かった。同じく鉄道ファンである円谷英二は関沢に何の電車を出すかを事前に聞いてミニチュアを用意していたという。円谷は晩年に撮影用の車両を関沢へ譲ることを約束していたが、果たすことなく死去した。


平成ゴジラで監督・脚本を担当した大森一樹は『ゴジラVSビオランテ』の脚本を書いた際に関沢の脚本を読み込み、物語の展開の仕方や怪獣映画でありながら他ジャンルの映画の要素も取り込んでいることなどを評価している。

『ビオランテ』当時の大森は、関沢作品の内容を「ただの絵空事」として否定的に捉えていたが、実際に製作してみると怪獣と現実は噛み合わないと実感し、関沢が偉大であったと思い直したといい、『ゴジラvsモスラ』などではその手法を取り入れている。


外部リンク編集

Wikipedia/関沢新一

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