アレクセイ・ナワリヌイ
あれくせいなわりぬい
所属国 | ロシア連邦 |
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出生日 | 1976年6月4日 |
出生地 | ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 ブティン |
死亡日 | 2024年2月16日(47歳) |
死没地 | ロシア連邦 ヤマロ・ネネツ自治管区 ハルプ |
所属政党(2024年2月時点) | 未来のロシア |
出身校 | ロシア諸民族友好大学・ロシア連邦政府付属財政大学・イェール大学 |
宗教 | |
配偶者(2024年2月時点) | ユリア・ナヴァルナヤ |
子女 | 2人 |
アレクセイ・アナトリエヴィチ・ナワリヌイ(ロシア語:Алексей Анатольевич Навальный、ラテン文字表記の例:Aleksei Anatolievich、1976年6月4日 – 2024年2月16日)は、ロシア連邦の政治活動家、弁護士。ロシアの反政府勢力指導者で、プーチン大統領に対する主要な反対者であった。更にロシアでの汚職の捜査で最初の名声を得ており、2011年9月に反汚職財団という非営利団体を設立してその創設者になった一方で、プーチンが最も恐れた人物である。
1976年6月4日にソビエト連邦のロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のブティンにて、陸軍将校の父と会計士の母の間に誕生した。1998年にロシア諸民族友好大学の法学部を卒業し、2010年11月にアメリカのイェール大学でイェール・ワールド・フェロー・プログラムによって半年間の研修を受け、2011年2月に政権与党である統一ロシアを「詐欺師と泥棒の党」と呼んで批判した。
2011年国家院議員選挙
2011年12月に国家院(下院)議員選挙が実施された直後、選挙に不正行為があったとの非難の声が上がり、モスクワ市内では6000人が反政府デモに参加した。同月に逮捕されてからは15日間も勾留されたが、逮捕の後に自身のブログは英語でも閲覧できるようになった。メドヴェージェフ大統領の公式ツイッターアカウントに、統一ロシアのコンスタンティン・ルィコフが「ブログに詐欺師と泥棒の党と書いていた奴は馬鹿なヒツジ野郎だ。」などといった発言を書き込んだ。
2012年ロシア連邦大統領選挙
2012年ロシア連邦大統領選挙で勝利を掴むと公言するプーチンに対して結束するよう市民に呼び掛け、釈放された時はテレビのリポーターに対して「(自分が)大統領選挙に出馬する事は無意味な事だ。クレムリンは公平な選挙をさせてくれないだろうからね。だがもし公平な選挙が行われるのであれば、出馬する準備はできている。」と述べている。
大統領選挙でプーチンが当選した後はモスクワのプーシキン広場で反プーチンデモを開催し、1万4千人から2万人が参加した。集会の後は再度当局に身柄を拘束されたが、この時は数時間後に解放されている。同年5月にプーチンが3期目の大統領に就任した時、チスチェ池での反プーチンデモに参加した後に逮捕され、2人とも禁固15日間を言い渡された。
2013年モスクワ市長選挙と訴訟
2013年9月にモスクワ市長選挙が実施された時は選挙に不正があったと主張し、大統領の側近であるセルゲイ・ソビャーニン市長(現職)の実際の得票率は半数以下だと述べて決選投票の実施を求めた。2014年12月にフランスの化粧品会社であるイブロシェに対する詐欺罪で懲役3年6か月(執行猶予付き)の判決を言い渡されたが、イブロシェ側は被害を受けていないと公表していた。
2016年2月に欧州人権裁判所は2013年7月に有罪判決が下りた横領罪について、公正な裁判では無かったとして裁判は無効との判決を下した。しかしロシアの最高裁判所は再審を指示し、2017年2月に禁固5年(執行猶予付き)の判決が言い渡された。
2017年3月のデモ
2017年3月2日にメドヴェージェフ首相の蓄財などの腐敗を告発する動画を公開し、同月にナワリヌイの呼び掛けによってモスクワでデモが開催され、警察の発表によれば参加者は7000人から8000人と近年最大の規模だった。このデモでは自身と1000人以上の参加者が逮捕されて15日間の拘留となり、このデモについてペスコフ大統領報道官は「挑発であり、まやかしだ。」とし、ロシア政府による参加者の拘束について国務省は「民主主義への侮辱。」と述べた。
同年6月に自身の呼び掛けで大規模なデモを開催したが、フランス通信社の報道では自身と1500人以上の支持者が身柄を拘束され、主催者として30日間の拘留となった。同年10月に違法な集会を開催したとして20日間の拘留を言い渡され、同月にプーチンが65歳の誕生日を迎える日に大統領の退陣を求めるデモを開催し、3月と6月のデモよりは小規模だったものの270人以上が拘束された。
2018年ロシア連邦大統領選挙
2018年ロシア連邦大統領選挙は刑事事件で有罪判決を受けている事から出馬する資格が無いというのが中央選挙管理委員会の見解であったが、2017年12月に候補者の登録に必要な書類を提出した。しかし同月に選挙管理委員会が全会一致で立候補は無効であるとの判断を下した為、これを受けて選挙のボイコットを呼びかけると共に異議を申し立てる構えを示した。
その後
2020年8月に神経剤であるノビチョクによる中毒未遂事件に遭遇して重篤な状態で入院し、同月にドイツのベルリンにあるシャリテ病院に入院して同年9月に退院した。2021年1月にロシアに帰国してドイツで入院中に仮釈放条件に違反した容疑で即拘留され、逮捕された後はロシア全土で大規模な抗議が発生し、2022年9月のロシア・ウクライナ戦争での動員に対する抵抗などを呼び掛けた。
2023年12月に入って3週間ほど所在が不明と伝えられていたが、同月に北極圏にあるヤマロ・ネネツ自治管区の刑務所に移送されていた事が判明し、2024年2月16日にその刑務所にて47歳で死去した。声明によると散歩した後に「気分が良くない。」と訴えた直後に意識を失い、医療スタッフを呼んだものの蘇生できなかったとしており、死去した後も支持者及び欧米各国の国民による追悼の献花が続いた。
2000年8月にユリア・ナヴァルナヤと結婚して2人の子女が誕生した。