Edward Sylvester Morse(1838年6月18日~1925年12月20日)
概要
3度にわたって来日し、採集旅行の合間に日本各地の民芸品や陶磁器を収集し、多数のスケッチを描き残した。
略歴
1838年、アメリカ合衆国のポートランド(メイン州)で誕生。
長じて幾つかの学校に通うが、学校の机に彫刻するなどしたため退学させられた。しかしベセル(メイン州)のグールド・アカデミーでは、ナサニエル・トゥルー師から自然科学の研究を勧められた。
1854年、製図技師、木彫職人として働きながら博物学協会に入会。
1859年、ハーバード大学のルイ・アガシー教授の助手に推挙され、コレクションの保存、記録、デッサンを担当。
1861年、アメリカ南北戦争が勃発。モースは北軍の第25メイン歩兵連隊に召集されたが、扁桃炎を理由に断った。
1863年、エレン・エリザベス・オーウェンと結婚。
1867年、セイラム(マサチューセッツ州)に「ピーボディー科学アカデミー」を設立し、学芸員を務める。
1871年、ボウディン大学(メイン州)で教授に就任。
1872年、アメリカ科学振興協会の幹事となる。
1877年、6月に腕足動物の種類が豊富な日本に研究のため渡航。
採集の了解を求めて文部省へ向かう途中、汽車の窓から大森貝塚を発見する。
文部省では、東京大学の外山正一から教授への就任を請われ、法理文学部の教授に就任。
当時の東京大学の教授は研究実績のない宣教師ばかりで、モースは彼らを追放し、トマス・メンデンホール、アーネスト・フェノロサなど優れた研究者を招聘した。
大森貝塚の発掘を進めつつ東京大学で進化論を講義し、11月に帰国した。
1878年、4月に家族を伴って再来日。大森貝塚の発掘について講演する。
大森貝塚の縄文土器から日本の陶器に興味を持ち、九州、近畿地方で窯元を見学。
1879年、大森貝塚発掘の詳報を出版。東京大学綜理の加藤弘之に学術報告書を刊行し海外と文献類を交換するよう勧めた。
8月31日、東京大学を満期退職し、後任にはチャールズ・オーティス・ホイットマンを斡旋。9月に帰国した。
1880年、ピーボディー科学アカデミーの学芸員に復職。
1882年、仏教研究家のウィリアム・スタージス・ビゲローと共に3度目の来日。日本各地で民具や陶器、武具、和書などを収集。
1883年、2月に単身で日本を離れ、東南アジアへ向かう。フランス・イギリスを回って帰国。
1886年、アメリカ科学振興協会会長となった。
1890年、日本の陶器約5,000点をボストン美術館へ売却し管理に当たる。
1898年、日本政府より勲三等旭日中綬章を受章。
1914年、ボストン博物学会会長となった。
1922年、日本政府より勲二等瑞宝章を受章。
1923年、関東大震災による東京帝国大学図書館の壊滅を知り、全蔵書を寄付する旨を遺言に書き加えた。
1925年、脳溢血に倒れ、12月20日にセイラムの自宅で没した。