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人物としてのエンツォ・フェラーリ
フルネームはエンツォ・アンセルモ・ジュゼッペ・マリア・フェラーリ。
1898年2月18日にイタリアのモデナにて、板金工の父・アルフレード・フェラーリと母・アダルジーザ・ビスビーニとの間に次男として誕生。
幼少のころの夢はオペラのテノール歌手かスポーツ記者、またはレーシングドライバーになることだったという。
第一次世界大戦が勃発すると徴兵され、イタリア軍第3山岳砲兵指揮団に従軍。しかし、1916年に兄のアルフレード・ジュニアが戦死。また同年にイタリア風邪が流行し、父が罹患し死亡。自身もそれに伴う肋膜炎を患い1918年に除隊した。
エンツォはレーシングドライバーの職を求め、「コストゥルツィオーニ・メッカニケ」に入社しテストドライバーとなった。翌1919年にレーシングドライバーに昇格し、「マ・ポッジョ・ディ・ベルチェート・ヒルクライムレース」や「タルガ・フローリオ」に出場した。
1920年、アルファロメオにレーシングドライバーとして参加。1923年に初優勝を果たすなどしたが、同僚のウーゴ・シヴォッチがテストドライブ中に、アントニオ・アスカリがレース中に事故で亡くなったことによるショックから体調を悪くする。ラウラ・ドミニカ・ガレッロと結婚したのはその頃の1925年である。
1929年、「ソチェタ・アノニマ・スクーデリア・フェラーリ」を創設し、アルファロメオのセミワークスチームとして活動。ドライバーとしても参加するが復調しなかったため、また長男アルフレード(ディーノ)の誕生もあって1932年に引退。以後はチームのマネージメントに専念し好成績を残した。
1937年、アルファロメオの取締役ウーゴ・ゴッバートは、レーシングチームをアルファロメオの管理下に戻すことを決定し、エンツォをスポーティング・ディレクターとしたが意見が対立するようになり、エンツォは1939年に退社すると翌年に自動車メーカー「アウト・アヴィオ・コストルツィオーニ」を創立した。しかし、すぐさま第二次世界大戦が勃発しレースが中止になると自動車製造を中止し、軍需生産に徹することになった。大戦末期の1945年に、愛人のリナ・ラルディとの間に次男ピエロが誕生する。
大戦終結後の1947年に「フェラーリ」を設立。レーシング・マシンの開発の傍ら、レース資金調達のために高級スポーツカーの製造販売を開始する。1948年よりレースに参戦すると、ル・マン24時間やミッレミリア、F1などで立て続けに優勝含む好成績を残していく。
しかし、1960年代に入るとレースへの過剰投資によって経営が悪化。幹部の離反や社員のストライキを招いた。そのため、1969年に会社の株式の50%をフィアットへ売却し傘下となった。ただし、レースの管理権は100%を保持しており、エンツォは会長職に就いてスポーツ部門の「スクーデリア・フェラーリ」の指揮に専念した。
1977年に会長職を勇退。翌年に妻のラウラが死去すると、1956年に長男ディーノを筋ジストロフィーで失っていたこともあり、私生児のピエロを正式に息子として迎えた。
1988年8月14日、90歳で死去。
車としてのエンツォ・フェラーリ
フェラーリ創業55周年となる2002年に、創業者エンツォ・フェラーリの名を冠して発表された。フェラーリとしてはF40、F50に続く21世紀初の限定生産車(スペチアーレ、イタリア語表記:speciale)であり、大出力のエンジンをミッドシップに搭載しリアタイヤを駆動させる(MR駆動)という様式を受け継いでいる。
当初、車名は「F60」と予想されていたが、2002年4月27日にプロトタイプ「FX」の原寸大モックアップが東京都現代美術館で初披露され、6月25日に「エンツォ・フェラーリ」という車名を公表。9月28日のパリモーターショーで正式公開された。
349台と追加生産50台の合計399台が生産され、そのうち日本国内への正規輸入台数は33台。新車価格は日本円換算で7850万円とされているが、その希少性の為中古車市場では3億円近い価格がついたこともあった。
前述の通り生産台数は399台であるが、2005年6月10日にマラネッロにあるフェラーリ本社のロジスティックセンターで開催されたサザビーズのオークションに突如「400台目」のエンツォが出品された。これはチャリティー目的のためにローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が注文した個体で、前側のトランクリッドパネルの裏側に同教皇からのメッセージが書かれている。この個体は95万ユーロ(日本円で約1億5000万円)で落札され、売上金は全額教皇ベネディクト16世に寄付された。使い道についてはスマトラ島沖地震(2004年)の義捐金に用いられたという説が有力である。
また、GTレースへの参戦を目的としたコンセプトモデルも製作されたが、正式に発表されることはなかった。
スペック
型式名F140Bのナンバーを持つエンジンは排気量5998cc、バンク角65°の水冷V12 DOHCエンジンで、シリンダーブロックはアルミニウム合金製。最高出力485kW(=660ps)/7800rpm、最大トルク67kgf·m(=657Nm)/5500rpmと非常に強力なスペックを誇り、回転数は最高8200rpmまで許容するが、吸排気バルブの開閉タイミングを適切に調節する可変バルブ機構(VVT)を搭載し、低回転域での扱いやすさも考慮されている。このエンジンと軽量な車体によって、最高速度は350km/hと公表されている。
シリンダーブロックを形成するアルミニウム合金は軽い素材である為これが軽量化に貢献し、エンジンの単体重量は225kgである。
トランスミッションは当初7速と囁かれていたものの、結局は保守的な6速に落ち着いた。「F1マチック」と称するセミオートマチックトランスミッションを搭載してクラッチペダルを廃したが、自動変速モードは搭載されておらず、現代のスーパーカー・ハイパーカーの主流であるパドルシフトによる手動変速操作が必要となる。
足回りは四輪ダブルウィッシュボーン式。ショックアブソーバーとコイルユニットをフレーム側に取り付け、プッシュロッドで押すインボード式が採用されている。ブレーキはローター(ディスクの事)にカーボンセラミック素材を使用したブレンボ製。装着されるタイヤは当時F1グランプリで密接な関係にあったブリヂストン製の「ポテンザRE050スクーデリア」という専用品である。
非常に過激なスペックにもかかわらず、ASRと呼ばれるスタビリティコントロールを搭載し、これが機能する限り一般道でドライバーがコントロール不能に陥る危険を低くしている。ASRは任意でカット・オフすることも可能。かつてのマクラーレン F1の性能は、ロードカーとしてはすでに危険な領域に踏み込んでいたが、エンツォはこのASRの搭載によってマクラーレンに迫る性能を持ちながら、ロードカーとしての安全性を確保している(当時のマクラーレン F1は徹底的な軽量化の為安全装置の類─ABS等─は一切無い)。
エンジン、ミッション、サスペンション、ASRは統合制御され、ドライバーは「ノーマル」、「スポーツ」、「レース」の制御プログラムを選択出来る。「レース」モードでASRオフを選択した場合は、スタート時にローンチコントロールを使用したレーシングスタートが可能。
主要諸元:
エンジンタイプ | ミッドシップ縦置き バンク角65° V型12気筒 (可変バルブ機構有) |
排気量 | 5998cc |
最高出力 | 485kW(=660ps)/7800rpm |
最大トルク | 67kgm・f(=657Nm)/5500rpm |
バルブ作動システム | DOHC(1気筒あたり4バルブ) |
燃料タンク容量 | 110L |
トランスミッション | F1マチック 6速セミAT+リバースギア |
サスペンション(前) | 独立懸架、ダブルウィッシュボーン、コイルスプリング、電子制御式ショックアブソーバー、アンチロールバー |
サスペンション(後) | 独立懸架、ダブルウィッシュボーン、コイルスプリング、電子制御式ショックアブソーバー、アンチロールバー |
ブレーキ | ブレンボ製 カーボンセラミックディスク |
全長 | 4702mm |
全幅 | 2305mm |
全高 | 1147mm |
車重(乾燥重量) | 1255kg |
最高速度 | 350km/h |
0~100km/h加速 | 3.65秒 |
0~400mタイム | 11.00秒 |
0~1kmタイム | 19.60秒 |
エクステリア・デザイン
デザインは、当時ピニンファリーナに在籍していた日本人カーデザイナーの奥山清行によるもの。F50にはなかった快適性とそれ以上の動力性能を有し、これまでフェラーリが開発してきた限定生産車のいずれとも違う性格を持つものとなった。
明らかにF1カーを意識したとわかるフロントノーズ、フェラーリ伝統の丸形テールランプを削り出したかのように露出させたテールエンド、エアインテークを兼ねる大きく張り出した前後フェンダーなど、そのエクステリアは大胆かつ明快なもので、スーパーカーやレーシングカーを強く想起させるデザインとなっている。奥山によれば、当初提出したデザインはこれよりも保守的なものでフェラーリ会長のルカ・ディ・モンテゼーモロからダメ出しを受けたが、「15分待ってください」と上司が頼んだ後で手持ちのデザインを完成させ、それを提出すると了承されたという。そげなバカな。
また、後年(2019年)の奥山の証言によれば、本車のデザインはRX-78ガンダムからのインスパイアであると語られている。
F1風のハイノーズは、スクーデリア・フェラーリが1999年にF1のコンストラクターズチャンピオンを獲得したことで採用に踏み切ったという。開発中は、当時フェラーリのエースドライバーだったミハエル・シューマッハにも意見を聞いている。
F40、F50にあったリアウィングを廃し、キャノピーを強調させたF50よりシャープにしてダイナミックなラインで描かれている。ドアはバタフライドアを採用してシートへのアクセスを容易なものにしており、さらにエアコンが完備される(F50のエアコンはフィルターすらない簡易的なものだった)など、ドライバーの環境にかなりの配慮を見せている。一方でモーターにより可動する電動スポイラー、グラウンド・エフェクトを狙ったアンダーパネルのベンチュリ・トンネル、その効果を助長するリアエンドの大型ディフューザーなど、走行性能に関する部分もF50からさらに煮詰められている。
ほぼ同時期に存在をアナウンスされたポルシェ カレラGTやメルセデス・ベンツ SLR マクラーレンと同じく、この時期のトレンドとなるカーボンファイバー素材を多用しており、ボディパネルはもとよりフレームも大半がカーボンコンポジットによって形成されている。コクピットを強靭なバスタブモノコック形状とし、そこからサブフレームを伸ばしてエンジンをマウントする。
同じ様にダラーラに製造を委託したF50との大きな違いは、F50が同じカーボン製フレームを用いつつもエンジンをフレームの一部とみなして走行中のストレスを負担させる構造を持つのに対し、エンツォはサブフレームにブッシュを介してマウントする方式であり、純粋なレーシングカー風のレイアウトを持つF50と比較して遥かにロードカーらしい設計となった。エンジンとフレームが直接連結されるF50は振動や騒音対策の面で不利な要素を持っていたものの、エンツォはゴムブッシュという緩衝材を噛ませることで快適性の向上に寄与している。
余談
エンツォ・フェラーリは左ハンドル仕様のみの生産であり、右ハンドル仕様はオプションで選べたが399台のうち1台も受注がなかった為、結果的に生産されなかった。
本モデルをベースにしたサーキット専用マシンとして「FXX」なるモデルが存在。詳細は当該記事参照。
→FXX
関連イラスト
イラスト奥から、288GTO、F40、F50、エンツォ・フェラーリの順。
関連タグ
F50→エンツォ・フェラーリの先代
ラ・フェラーリ→エンツォ・フェラーリの後継
FXX→エンツォ・フェラーリベースの公道走行度外視モデル
ディーノ→フェラーリが設計・製造したスーパーカー。名前は、エンツォ・フェラーリ氏の長男「アルフレード・フェラーリ」の愛称に由来する。