概要
俗ラテン語のより派生した方言の一つで、アルプス山中のスイス、イタリア国境地帯で使用される。
現存するラテン語の派生言語の中ではラテン語と非常に近しい関係にある言語で、現在でもラテン語の方言と語られることも多い。
音韻学的にはイタリア語に似るが、語彙面ではフランス語、とりわけオック語と呼ばれる南部方言のものに非常に似ている。そもそも、フランス語(特にオック語)とイタリア語は双方の方言が国境を超えて連続的に変化しており、標準語同士では意思疎通ができないほどに違うが、地理的に近接するフランス語の方言とイタリア語の方言は相互理解が可能なことが多い。ロマンシュ語の話者数は非常に少なく、実態としてはこういったフランス語ともイタリア語ともとれない、両者の中間的な特徴を有する諸方言の一つにすぎないが、ロマンシュ語はスイス連邦のグラウビュンデン州エンガディン地方の公用語に指定されており、正書法と標準語が定められている経緯から、方言や地域少数言語ではなく、独立した言語として扱われている。
話される地域
俗ラテン語としてはやや古風な言語であり、アルプス山中に局所的に残っている事情から、分布域は三箇所に分かれており、それぞれで別の方言が話されている。
- スイス連邦グラウビュンデン州エンガディン渓谷およびその周辺地域(エンガディン語)
- イタリア共和国ドロミテ山岳地域(ラディン語)
- イタリア共和国フリウーリ地方(フリウリ語)
このうち、最大の話者数を誇るものはフリウリ語であるが、この方言はイタリアにおいて公用語としての地位を有さず、実態としてイタリア語の方言としての扱いを受ける少数地方言語である(イタリアでは少数言語およびその話者の保護の観点から方言という名称を使用せず、すべての方言をイタリア語とは異なる別言語として扱っているが、実際の取り扱いにおいて行政言語としての使用などができず、事態は方言そのものである)。ラディン語も行政上の扱いは同様であり、加えて話者数も少ない消滅危機言語である。
対してエンガディン語は、絶対的な話者数が少ないことに加え、州内でも使用地域が点在している事情から相互に意思疎通が困難な5つの方言(小方言)にさらに分かれていた(鹿児島弁や津軽弁にみられるような「方言の方言」をイメージするとわかりやすい)ために、個別の小方言では非常に過小な話者数しか有しないものの、近年標準語の採択と公用語化が行われたため、フリウリ語やラディン語に比べて圧倒的に話者数が少ないにも拘わらず、ロマンシュ語の標準語としての地位とスイスの公用語の地位を得ている。なおロマンシュ語がこうした地位を得た背景の一つに、戦間期に坊主のドゥーチェ率いるイタリアが「ロマンス語圏ぜんぶイタリア理論」からスイス南部を「未回収のイタリア」の一部として併合しようとした事があるのではないかという意見もある。
スイス国内でもロマンシュ語の話者数は非常に少なく、ドイツ語やフランス語、イタリア語の方言と見做されているスイス国内の他の言語(スイス語、アルピタン語、ティチーノ語、ロンバルド語)にも遠く及ばない程度の話者数しかいないが、これらの言語はいずれも近隣諸国の言語の方言にすぎないために正書法が確立しておらず、国内に母語話者を有する標準語も存在しない。
標準語
グラウビュンデン州のエンガディン語は、公用語化に当たって正書法の確立と標準語の採択が求められることになった。この際にエンガディン語を構成する5つの小方言の話者たちが、それぞれに自分達の「母語」が標準語として採択されるべきであり、別の地域で話されている「標準語」の「方言」として「訛った汚い言葉」と見做されるのはけしからんとゴネまくる結果となった。結局、エンガディン方言を構成する5つの小方言をバランスよく混ぜ合わせた人工言語を新たに設定し、これをロマンシュ語の標準語に採用するという苦肉の策がとられたが、今なお学校教育の場で母語話者のいない標準語を教授することに反発を覚える市民も多く、国語(ロマンシュ語)の授業で標準語を教えるべきか、それともその学校の所在する地域で話される小方言(場合によっては小方言のさらに下位の区分の小小方言)を教えるのかというのは、グラウビュンデン州では時に政治闘争も伴うような非常にセンシティブな問題である。アルプス山中の牧歌的な少数言語というイメージとは裏腹に、この言語を取り巻く現状は大人の事情とアダルティな駆け引きに満ちた、おどろおどろしい世界になりつつある。