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概要編集

1988年12月5日生まれ、徳島県小松島市出身。

ポジションはディフェンダー(センターバック)。

小学生時代は南小松島FC大松SCに、中学生年代は大塚FCジュニアユース(現徳島ヴォルティスジュニアユース)に所属。

中学までは無名だったが徳島県立徳島商業高等学校に進学、高1および高2のとき選手権(第83回・第84回)にミッドフィルダーとして出場したことから国士舘大学からスポーツ特待生としてスカウトされ2007年に進学。

主にボランチや左サイドのMFとしてプレーしていたがレギュラーになれず、2010年大学4年時に、柱谷哲二(元日本代表、日産自動車ヴェルディ川崎で活躍。実兄の柱谷幸一も元日本代表)が国士大コーチに就任するとセンターバックにコンバート、レギュラーをつかむ。

しかし卒業の際にはJリーグクラブからオファーがなく、唯一JFLSAGAWA SHIGA FC(解散)が声をかけたぐらいだった。


2011年、柱谷がJリーグ水戸ホーリーホックの監督に就任すると塩谷もさそわれ入団。

水戸は前年の主力が大量に移籍退団したことから大学出身の新入団選手を大量に獲得、開幕戦からスタメン出場を果たし、シーズン中にはDFラインのリーダーになるほど成長。

2012年8月、サンフレッチェ広島へ完全移籍。柱谷と広島の森保一監督がドーハの悲劇時のオフトジャパンメンバーで、柱谷が広島を推薦したことから決まったことによる。

移籍当初はリーグ戦3試合の出場にとどまったが翌年3バックの一角としてスタメンに定着し連覇にも貢献した。


翌2014年にアルベルト・ザッケローニ日本代表監督の目に止まり、5月の日本代表キャンプに呼ばれたもののAキャップ出場はならず。10月10日のキリンチャレンジカップ・ジャマイカ戦で日本代表デビューを果たした。

2016年6月14日、リオデジャネイロオリンピックに出場するU-23サッカー日本代表のオーバーエイジ枠に内定。センターバックに入りグループリーグ全試合フル出場を果たすも期待に応えられずグループリーグ敗退。


2017年6月15日、UAEの強豪クラブ・アル・アインFCへ完全移籍。

2018年、FIFAクラブワールドカップ2018で開催国代表としてアル・アインが初出場。塩谷も、

  • 1回戦のチーム・ウェリントン戦(3-3、PK4-3)でも0-3から反撃の狼煙をあげる追撃弾を放つ。
  • 準決勝のリバープレート戦(2-2、PK5-4)では1-2の後半6分にカイオの同点ゴールをアシスト。
  • 決勝のレアル・マドリード戦(4-1)で3点のリードの許していた後半41分、カイオのフリーキックにニアへ走り込みヘディングで一矢報いる。

など活躍を見せた。

2019年、AFCアジアカップ2019で中島翔哉守田英正が負傷で離脱、乾貴士と共に日本代表に追加招集(乾はロシアW杯以来、塩谷は約4年ぶりで共に森保体制で初招集。)される。

アジアカップでは1次リーグF組のウズベキスタン戦(2-1)に先発出場、後半に逆転のミドルシュートを放つ。


2021年6月、アル・アインを今季限りで退団。

同年10月、サンフレッチェ広島への加入が発表、4年ぶりに復帰。

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