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人物編集

1925年4月25日京都府京都市に生まれる。実父は大分県佐伯市出身、母は福島県南会津郡田島町出身。父を亡くした後に母の故郷で過ごした後、父の故郷に移り住んでいる。


1945年に台湾の台湾総督府台南師範学校を卒業後、台南市で高射砲兵となって終戦を迎えた。帰国後は故郷の佐伯市で小学校教師となるも1951年に職を辞して上京。日雇いの仕事をしながら少女向け漫画や新聞の4コマ漫画を描いたり、『サンデー毎日』へ漫画を投稿していた。後に雑誌『モダン日本』や漫画家の杉浦幸雄に原稿を見せた所才能を認められ、一時は25本の連載を抱えた程の売れっ子漫画家となった。

しかし、その連載状況から漫画家仲間たちに「このままだと過労死しかねない」と心配されたため、当時連載をしていた雑誌の一つである『漫画サンデー』に対し4倍の原稿料をもらう代わりにほかの出版社の雑誌では執筆しないという条件を確約させた。これは漫画雑誌の専属契約の始まりともいえる事例である。


代表作に『チンコロ姐ちゃん』、『ポンコツおやじ』、『せっかちネエヤ』、『びっくりはるあき』など。グルメガイド本や絵本も発表しているほか、歌手としてレコードも発売している。


1992年に紫綬褒章、1998年に勲四等旭日小綬章を受章している。1986年には『一朗忍者考』で第15回日本漫画家協会賞大賞を受賞した。


60歳を過ぎた頃に糖尿病と診断され、それまでの生活を一新。「健康じいさん」と自称して医療関係のシンポジウムで講演を行ったり、自身の闘病体験を手記にしたりしている。


国鉄末期からJR九州初期の大分県内の普通列車「タウンシャトル」のヘッドマークをデザインしている。


広島東洋カープのファンとしても知られ、ジャケットのイラストだけでなく自らが歌ったレコード『ゴーゴーカープ』を出した事もあった(ちなみに広島で選手・コーチ・監督として活躍した阿南準郎は小学校教師時代の教え子である)。


2021年5月5日老衰のため東京都世田谷区の自宅で死去。享年97(満96歳没)。


pixiv内では氏の特徴的なおっぱい描写をパロディ化したイラストや、後述の『お笑いマンガ道場』で描いていた作品をネタにした投稿が多い。


『お笑いマンガ道場』での活躍編集

1976年4月より1994年3月まで放映された中京テレビ制作の番組『お笑いマンガ道場』に鈴木義司(メイン画像左側)とともにレギュラー出演。「2コマです!」等と言ってから行うフリップボードの表裏を使った2コマ漫画ネタやおっぱいのネタも有名だったが、鈴木を「土管に住んでいる貧乏人」や「ケムシミノムシ」などとこき下ろすと今度は鈴木から「お化けナマコ」や「デブの恵まれない人」などと返される(その逆もしかり)のが番組内での名物のやり取りとなっていた。


もっとも、これらのやり取りはお互いが駆け出し以来の盟友同士だからこそ可能なものであり(しかも生前は公言していた程)、番組への出演も鈴木から電話で誘われて実現したものである。そのため、2004年7月に鈴木が死去した際には誰よりもがっくりと肩を落としたという。もう一度二人でマンガ道場でやりたかったとの事。


富永一朗と言えば「土管の貧乏人のイラスト」が連想されやすいが、先述の通り「土管に入っている人は富永一朗ではなく鈴木義司」である。


番組のエンディングでは他の共演者が手を振っている中ただ一人右手を斜めに上げるポーズ(メイン画像を参照)を取っていた事でも有名だったが、本人はこの事について「母から男が手を振るのはみっともない、男はいつもビシッとしていなさいと言われたのを守る為にやっていた」と語っている。


関連イラスト編集

かげゆゆみっくみくにしてやんよ!?


関連タグ編集

漫画家 鈴木義司 お笑いマンガ道場

国鉄大分管理局 JR九州 タウンシャトル

国道217号線 -大分市から佐伯市を結ぶ国道で、氏にちなみ「イチローロード」と言う名称が付いている。

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