概要
パナソニックの社員や議員秘書を経て、無所属で衆議院議員になった。その後民主党に入党し、民進党と国民民主党を経て2020年に立憲民主党へ入党した。
プロフィール
民主党政権まで
公立の中学校・高校を経て中央大学に入学。電気工学を専攻した。卒業後はパナソニックで勤務したのち、1983年に日本社会党の衆議院議員である中村正男の秘書に就任。1996年の衆議院議院選挙で大阪11区から立候補し、当選。1998年に民主党が結党したときのメンバーの一人である(それまでは無所属)。
2009年に民主党が政権交代を果たし、鳩山由紀夫内閣が発足。鳩山の信頼を経て内閣官房長官に就任した。なお、その直後に行われた鳩山の就任記者会見でフリーのジャーナリストに対して参加を許さないということを明らかにした。2010年2月10日、地元の大阪を訪れたとき「危機管理を担当する官房長官が非公式に東京を離れるのはおかしい。」とメディアや野党から指摘されたが本人はコメントしなかった。
鳩山由紀夫内閣が総辞職し菅直人内閣が発足したときは表だった活動を減らした。むしろ菅直人に対して批判的な態度を取り、小沢一郎を応援することもあった。12月14日、「雄志会(通称「平野グループ」)を発足し会長に就任。
翌年、野田佳彦内閣が発足すると国会対策委員長に就任。さらに野田が内閣を改造したときに文部科学大臣に就任した。
民主党下野後
民主党が下野した2012年の第46回衆議院議員総選挙で日本維新の会の候補に敗れ、比例復活もできず落選してしまった。落選した後は拓殖大学の客員教授を務め、母校である中央大学の理事にも就任した。
リベンジを誓った2014年の第47回衆議院議員総選挙では比例復活で当選。2年ぶりに国政へ復帰した。
2016年に民主党が解党して民進党になった後は副代表を務めた(副代表になったのは2017年)。
2017年の第48回衆議院議員総選挙では民進党の後継政党である希望の党が日本維新の会と候補者の棲み分けを行ったので、大阪府内の民進党候補者でただ一人、民進党に籍を置いたまま無所属で立候補。結果として平野は当選。それ以外の候補者については7人が立憲民主党へ、5人が国替えなどを受け入れて希望の党から立候補した。このことについて平野は「大阪は無血開城された!」と語った。その後、平野は岡田克也率いる無所属議員のグループに入会した。
2018年にそのグループを脱退して国民民主党へ入党。幹事長を務めた。
2020年に立憲民主党へ入党。代表代行と選挙対策委員長を務めた。しかし、翌年の第49回衆議院議員総選挙で日本維新の会の中司宏に敗れ、比例復活もできず2度目の落選。同じく落選した辻元清美が翌年の参議院議員選挙で国政へ復帰したのに対し、平野は「今後の活動は白紙にします。」と自身のツイッターで明らかにした。
その他
2012年時点で(9条を含む)日本国憲法改正に賛成していたが、2017年に手のひら返しをして反対の姿勢を示した。自民党の改憲案にある緊急事態条項に難色を示したからである。
2021年の東京都議会選挙をめぐって、自らの政党支部の機関紙号外に日本共産党の候補との対談を載せた元衆議院議員を議員会館にある自室へ呼び出し「お前、何考えてんねん!」と活を入れた。
2019年の参議院議員選挙に出馬した候補者の個人演説会に参加したとき、壇上でライターを聴衆に見せたうえで「皆さんの心を燃やしたいという思いで買ってきたが、これを燃やしたら京都みたいになったら困るので、今日は使わない。」と演説会の前日に起きた京都アニメーション第1スタジオ放火事件を揶揄するかのような失言をした。後日、平野は「結果的には(京アニ事件の被害者の方に)傷をつけたと。私としては申し訳なく反省をいたしております。」と謝罪した。
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鳩山由紀夫 野田佳彦 いずれも平野が要職に就いていたときの内閣総理大臣。