概要
大日本帝国陸軍の軍人であり、日本人の父とアメリカ人の母を持つ日米ハーフの陸軍将校。
『青い目のサムライ』という勇名で呼ばれることもある。
経歴
出生と学生時代
当時アメリカでシカゴ領事をしていた来栖三郎外交官と、その時に出会ったイギリス系アメリカ人の女性アリス・ジェイ・リトルとの間に生まれ、三兄弟の長男としてシカゴで育った。
その後、昭和2年(1927年)に日本に帰国し、東京の暁星中学校を経て、昭和12年(1937年)に名門の横浜高等工業学校(現:横浜国立大学)の機械科に入学した。
高工時代はラグビー部のキャプテンも務め、3年後の3月に同校を繰上げ卒業し、翌4月に日本の航空機メーカー『川西航空機』に入社する。
陸軍時代
その後、昭和16年(1941年)に学校卒業者のために徴兵され、1月に帝国陸軍の第8航空教育隊に入営し、高工時代に航空工学を専攻していたことから、航技見習士官採用試験を受験してこれに合格する。
陸軍航空技術学校を経て、3月に見習士官たる陸軍航技曹長となり、同年6月には陸軍航技少尉に任官するエリートコースを突き進んでいった。
当時の日本陸軍では、航空エンジニアとテスト・パイロットを融合させた『エンジニア・パイロット』の育成が行われており、彼の親友で同じ横浜高工出身の航技将校であり、既にエンジニア・パイロットであった畑俊八の薦めもあり、志願した彼はその素質から、昭和19年(1944年)に飛行分科『戦闘』のエンジニア・パイロットとして採用され、陸軍航空審査部飛行実験部戦闘隊に配属された。
事故死
昭和20年(1945年)2月17日、当時は陸軍技術大尉だった来栖は、愛機の四式戦闘機『疾風』に乗り込み、関東地方を攻撃してきたアメリカ海軍の艦載機を迎撃し、空中戦で見事に撃墜して一旦帰還。
さらに二度目の迎撃で飛び立つため搭乗しようとしたが、その寸前に同じく迎撃の為に発進した友軍機である、梅川亮三郎中尉の操縦する一式戦闘機『隼』が、滑走路の死角を急発進してきたためにプロペラに巻き込まれ、頭をはねられて事故死してしまった。
地上での接地体勢の『隼』の操縦席からは、来栖は死角に入っていたため存在を確認する事ができなかったこともあり、操縦暦14年半の超ベテランパイロットである梅川中尉であっても避けられなかった事故であったとされ、梅川中尉は落ち度は無かったとされ不問に処された。
英霊として
しかし、不慮の事故による死亡ではあまりにも気の毒だという陸軍の配慮もあり、来栖の家族には「迎撃戦闘時に被弾負傷、帰還後に死亡」と伝えられ、これが公式発表とされた。
戦後の靖国神社遊就館内での展示内容においても同様となっており、戦闘中の事故ゆえに戦死とされ、一階級特進の陸軍少佐となり、現在、彼は英霊として靖国神社に祀られている。
人物
白人の血が色濃く出た日本人離れした容貌で、当時は日本とアメリカの関係の悪化もあったゆえに、普段から強い偏見を受け、嫌がらせに遭うこともあったというが、高工時代や陸軍将校時代はその人柄の良さも相まって、周りから容貌について揶揄されることも無くなり、本人も弱音を漏らす事は少なかったという。
性格は竹を割ったように率直で男らしく、基本的には周囲の誰からも愛される人気者で、戦友たちからは口を揃えて「来栖はあらゆる意味で大和魂を体現した男であり、日本男児の典型だった」と語られている。
逸話
彼の母アリスは物静かで控えめな女性であったとされるが、戦後間もなく軽井沢に隠棲していた来栖夫妻のもとを進駐軍が訪問し、米軍将校の一人が居間に飾られている来栖良の遺影を指して、「あなたのご子息が戦死されたのは大変お気の毒なことだ。彼は日本軍の犠牲になったのだ」と語りかけたが、彼女は毅然とした態度で「息子は愛する祖国日本を守るために尊い命を捧げたのです。彼は日本軍の勇士として死にました。このような息子をもったことを私は誇りに思います」と答え、これを聞いた米軍将校は何も言い返せず、再度見て「いい男だ」とだけ述べて立ち去ったという。