概要
1989年3月3日生まれ。
バスケットボール選手の両親を持つスポーツ一家で育つ。3、4歳のときに「サッカーをやらせると成長にいい」と聞いた母親に勧められたのがサッカーを始めたきっかけであった。小学校時は川崎市内のサッカークラブに所属していたため、GKとして川崎市選抜・神奈川県選抜に選ばれていた。当時のお気に入りはアメリカ代表のトニー・メオラ。ユースチーム加入時には、横浜F・マリノスと川崎フロンターレのユースチームにも合格し、さらに神奈川県選抜時の監督から湘南ベルマーレへの勧誘を受けていたが、小学校時に近所のサッカースクールにFC東京がコーチングスタッフを派遣しており、権田が浅野寛文GKコーチの指導に好印象を受けた事と、そのスクール生には観戦チケットがプレゼントされ、駒沢陸上競技場にてJ2時代のFC東京の試合を生観戦したことなどが決め手となり、FC東京U-15への入団を選択した。2003年のクラブユース選手権で優勝し日本一を経験。
2005年10月から2種登録選手としてトップチームの練習に帯同し始め、2007年からは国士舘高校に在学しながらFC東京トップチームに正式に昇格となった。FC東京初の「平成生まれの選手」でもある。同年シーズン終盤にはサブとして公式戦ベンチ入りも果たした。
ながらく塩田仁史の控えとして過ごしていたが、2009年1月下旬に塩田が虫垂炎及び麻痺性腸閉塞による長期離脱を強いられ、更に阿部伸行もコンディション不良が目立ったことから、権田が開幕スタメンに抜擢され公式戦デビューすることとなった。その開幕戦ではアルビレックス新潟に4失点、第2節も浦和レッズに3失点で開幕2連敗と苦いデビューとなったが、第3節でJ1初昇格のモンテディオ山形に完封勝利し、第4節もジュビロ磐田に連続完封勝利を飾ると、それ以降はシュートに対する鋭い反応でチームに貢献。出場時間が規定に達しプロA契約選手となった。実質のデビューシーズンであったが、7月には全4試合を完封するなど(3勝1分)年間15完封というJ1リーグの個人記録(タイ記録・当時)を達成し、チームの5位躍進に貢献。川崎フロンターレとのナビスコカップ決勝でもフル出場。チーム5年ぶりの優勝に貢献するとともにプロ初タイトルを獲得。無失点に抑え、当時の鬼武健二チェアマンからはMVP級の活躍だったと評価された。
2010年も開幕から引き続き正GKとし、3月はわずか1失点と好スタートを切ったが、4月以降は南アフリカワールドカップによる中断まで僅か1勝と低迷。中断明け後も10試合未勝利を記録するなど低空飛行を続け、自身も夏場は一時的に塩田にスタメンを譲ることもあった。ホームゲームでは僅か2勝(うち1つは国立霞ヶ丘競技場での試合)に終わり、最終節では既に降格が決まっていた京都に敗れJ2降格が決まった。
J2に降格して迎えた2011年は若手の代表として副将を務めた。シーズン当初はレギュラーで出場していたが、ロンドンオリンピック予選の招集を機に塩田にレギュラーを奪われ、A代表選手がクラブでは控えという状況にもなった。シーズン終盤に差し掛かり再び正GKの座を奪取。塩田とのポジション争いは1年を通して続いた 。J2では力の差を見せつけ、2位に大差をつけて1年でJ1に復帰した。
J1に復帰した2012年は、新たに就任したランコ・ポポヴィッチ監督から「日本でNo.1のGK」と全幅の信頼を寄せられ、レギュラーを確保。しかし、「塩田との間に差は無い」とも評され、2013年の天皇杯では塩田の好守でチームがベスト4に進出する中、出場機会は無かった。また、2012年12月にドイツ・シュトゥットガルトとイタリア・エラス・ヴェローナの練習に参加した。
2014年は高いセーブ率で失点の大幅減に成功。2015年より塩田の退団に伴い背番号を「1」へ変更。1stステージでは全試合フル出場を続けたが、同年7月にオーバートレーニング症候群を発症し、離脱。3ヶ月ほどで復調の兆しを見せたが、戦列には復帰できなかった。
復活を期すクラブの了承の下、本田圭佑の熱望を受けて2016年1月にオーストリア・SVホルンへ期限付き移籍。初先発となった3月4日、第17節SKラピード・ウィーンⅡ戦で完封勝利したが、続く同月11日第18節SVオーバーヴァルト戦で右脛骨を骨折。2015-16シーズン中の回復は間に合わず、同シーズンの出場はこの2試合に留まったが、権田はホルンの日本人新監督濱吉正則の指導に戸惑うオーストリア選手との橋渡し役を務め信頼を集めた。
2016-17シーズン第6節ウィーナー・ノイシュタット戦で5ヶ月ぶりに復帰した。リーグ中断期間にあたる2016年12月でSVホルンとのレンタル契約が終了したためFC東京にレンタルバックした。
FC東京とは2017年末までの契約を残していたが、2017年1月、ヨーロッパでのプレーを希望して契約解除を申し出た[42]。クラブは権田の意向を尊重する方針だったため合意解除となった。
ヨーロッパでの移籍先が見つからず、2017年2月に帰国。夏の移籍期間まで無所属となることを覚悟していたが、サガン鳥栖から熱意あるオファーが届き、同クラブへ移籍加入。古巣との初対戦となったJ1第5節のFC東京戦では、古巣サポーターへ不義理な移籍を謝罪し、感謝を述べた。
2018年、チームは残留争いに巻き込まれるもののリーグ戦34試合にフル出場。最後まで懸命にゴールマウスを守りチームのJ1残留に貢献した。シーズン終了後に行われたチームメイトによる投票により、2018年のチームMVPに選出された。
2019年1月29日、ポルトガル1部のポルティモネンセSCへ移籍する事を発表した。5月17日、最終節のSCブラガ戦で移籍後初出場を果たした。 2019-2020シーズンは、中盤からレギュラーに定着し15試合に出場した。 しかし翌シーズンは主に若手のサムエル・ポルトガルにレギュラーの座を譲った。
2020年12月25日、清水エスパルスに期限付き移籍[53]。 背番号は37に決まった。 加入後からレギュラーを争奪し、リーグ開幕戦鹿島アントラーズ戦では先発に抜擢。鳥栖時代の2018年のJリーグ最終節以来、約2年ぶりのJリーグ出場を果たすと、鹿島の猛攻をビッグセーブで防ぎチーム6年ぶりの開幕戦勝利ならびに9年ぶりのカシマスタジアムでの勝利に貢献した。
2021年12月23日、清水エスパルスへの完全移籍が発表され、背番号も21に変更することが発表された。
2022年5月7日の川崎フロンターレ戦でJ1通算300試合出場を達成した[55]。
日本代表での活躍
ユースではU-17日本代表に選ばれAFC U-17選手権2004で日本のゴールマウスを守った。
2007 FIFA U-20ワールドカップには香川真司と共に飛び級で選出されたが、メンバー発表後に後十字靭帯を損傷し、出場を辞退。
2008年、U-19日本代表の主将として2009 FIFA U-20ワールドカップアジア地区予選を兼ねたAFC U-19選手権(サウジアラビア)に臨んだ。準々決勝の韓国戦では好セーブを連発したものの0-3と完敗。結果として日本が7大会連続で出場し続けていたU-20ワールドカップへの出場権を取り逃すという苦い経験をした。試合後には悔し涙を流しながらもTVインタビューに対応し、主将として責任感の強い部分を見せた。この年FC東京は権田との契約を複数年延長し、将来のチームの大黒柱候補としての期待の大きさをうかがわせた。
2009年12月21日にはアジアカップ最終予選・イエメン代表戦に向けたA代表に初招集され、2010年1月6日の試合では先発出場を果たし国際Aマッチデビューを飾った。
2010年9月30日には、アルベルト・ザッケローニ新監督の日本代表にも選出された。ここでの出場機会は得られなかったが、その後、ザッケローニはインタビューにおいて「たとえば権田。FC東京でプレーする1990年生まれのGKで、日本代表では第3GKだが、素晴らしい将来性がある。」と、大きな期待を示し、翌年開催のAFCアジアカップにも第3GKとして招集された。
アジアカップ以後は世代別代表を優先し、副将としてチームのまとめ役を担った。2012年7月2日、ロンドンオリンピックに臨むU-23日本代表に選出された。本大会ではグループリーグでのベストGKとの声が挙がる活躍で、4試合連続無失点を記録しベスト4入りに貢献。しかし、準決勝と3位決定戦では自身の判断ミスも重なって連敗し44年ぶりのメダル獲得を逃した。
2014年に開催されたブラジルワールドカップにも第3GKとして招集されたが、本大会での出場機会はなくチームもグループリーグで敗退した。
2015年3月27日、Jリーグでの出色の出来を認められヴァイッド・ハリルホジッチ新体制においてA代表復帰。同月の親善試合チュニジア代表戦で完封勝利を飾った。7月30日には東アジアカップ2015の代表メンバーに選出されたが、コンディション不良(後述)により辞退。
2018年、森保一新体制の初陣であるキリンチャレンジ杯において、3年ぶりに招集された。10月12日に行われたパナマ戦に出場し、無失点に抑えた。
2019年、AFCアジアカップ2019では、ターンオーバーで挑んだグループリーグ1試合を除く6試合にレギュラーとして出場。大会当初は鳥栖所属でレギュラー唯一のJリーガーだったが、決勝戦の前にポルトガルのポルティモネンセへの移籍を発表し、これにより決勝戦のカタール戦では、日本代表史上初のスタメン全員海外組となった。
2021年3月25日の韓国代表戦にスタメン出場し、3-0で勝利。これにより国際Aマッチ出場8試合連続無失点となり、楢﨑正剛が持っていた日本記録を更新した。
2022年11月1日、2022カタールW杯に臨む日本代表に選出された。初戦のドイツ戦でスタメン出場を果たし、川口能活、楢崎正剛、川島永嗣に次いでゴールキーパーとしてワールドカップに出場した史上4人目の日本人となった。試合では前後半通じて26本のシュートを浴びながら、日本のゴールを死守し逆転勝利に貢献してMVPに選ばれた。チームは決勝トーナメント1回戦で敗れたが、ベスト16進出に貢献した。
第二次森保ジャパンとなった2023年、契約更新した自身所属の清水がJ2降格を喫したことが影響し、森保監督は「日本の最高峰はJ1。優先順位をつけなければ」と話し、より高いレベルで戦っていくことを見据え、日程面なども考慮した上で招集を見送る方針を示唆。2022カタールW杯以降、代表招集は見送られることとなる。
家族
父の権田哲也は慶應義塾體育會バスケットボール部のOBでNKKシーホークスでプレーした元バスケットボール選手で、2020年まで慶應義塾體育會バスケットボール部の監督を務めた。
弟の権田隆人も慶應義塾體育會バスケットボール部のOBでB3リーグ・東京サンレーヴスなどに所属したバスケットボール選手。2021年から慶應義塾體育會バスケットボール部のアシスタントコーチを務めている。
2010年12月にネイリストの篠田裕美と結婚した。その後、妻は権田裕美としてヨガインストラクターを務めている。ももいろクローバーZの大ファンであり、サッカーのオフシーズンには家族を連れてライブに足を運ぶ。夫(権田修一)も「好きな女性タレント」に「ももクロ」を挙げたことがある。ちなみに1歳年下の妻とは高校時代の先輩と後輩の関係であり、その当時から交際していた。2013年5月7日には長男が誕生している。
エピソード
好きなサッカー選手はデンマークのピーター・シュマイケル、「守りながら常に攻撃のことを考えている」ドイツのマヌエル・ノイアー、ビルドアップに長けるマルク=アンドレ・テア・シュテーゲン。目標にしている選手はオーストリアのロベルト・アルマー。ホルンではスロベニア代表GKコーチニハード・ペコヴィッチの指導を受けており、兄弟子に当たる同代表GKサミール・ハンダノヴィッチ及びヤン・オブラクを参考にしている。
「(身体が資本の)サッカー選手として、何でも食べられるようにしておくことは大切」と語るが、にんじんが苦手。
2014年まで通訳として日本代表に帯同した矢野大輔は、権田のフォアザチームの姿勢を認め、円陣を組む際には権田の隣に入ることを験担ぎにしていた。
通常、日本代表では一度につき3名のGKが招集されるが、2015年当時は4名が招集されていた。しかし公式戦でベンチ入りできるGKは3名なので一人はベンチ外になり、同年6月の2018 FIFAワールドカップ・アジア2次予選シンガポール代表戦では権田がベンチ外になった。権田はチーム、個人とも好調で自信と手応えを持っていただけに、この扱いにショックを受け、「上り詰めるための方法が分からなくなって(権田談)」FC東京のマッシモ・フィッカデンティ監督とも衝突したという。権田はこの約1ヵ月後にオーバートレーニング症候群を発症。ハリルホジッチ日本代表監督は「毎回GKを4名呼ぶ」と明言していたが、この件以降、基本的には[注 11]3名の招集が続いた。
W杯複数の大会で登録メンバーに入った選手は大勢いるが、連続ではなく、落選した大会を挟んでの複数回選出は今のところ権田(2大会ぶり2度目)だけである。