概要
本名:花登善之助(1928年3月12日~1983年10月3日)
ペンネームはイギリスの劇作家「バーナード・ショー」をもじり、「筺」の読みを変えたもの。
1950年代より喜劇の台本作家、1960年代より小説家、漫画原作者、テレビのコメディの脚本家として活躍。
1970年代には商人を主人公とした商魂物を多数執筆した。
生涯に書いた脚本の数は6000本を超える。
略歴
1928年3月12日、滋賀県大津市の川崎家に誕生。後年、花登家へ嫁いだ姉・八重の養子となり、花登姓となる。
1947年、大津商業学校を卒業し同志社大学に進学。演劇活動を始める。
1951年、大学を卒業し、船場(大阪市)の綿糸問屋「田附商店」に入社するが肺結核により翌年退社。死線をさまようが九死に一生をとりとめる。健康を回復後、ラジオ局へ持ち込んだドラマの脚本が採用され脚本家となる。
1954年、東宝と契約し、北野劇場、OSミュージックホールなどのコント作家・演出家を務める。
1958年、コメディ・ドラマ「やりくりアパート」(大阪テレビ放送)の脚本を手掛ける。
1959年、コメディ・ドラマ「とんま天狗」(よみうりテレビ)や南街会館(東宝系)で公開収録の「番頭はんと丁稚どん」(毎日放送)がヒットするが、子役・中山千夏の扱いを巡って東宝と対立し独立。番組に出演していた大村崑、芦屋雁之助、芦屋小雁、由美あづさらとともに「劇団・笑いの王国」を結成(座長は大村崑)。
1964年、内紛により「劇団・笑いの王国」が解散。
1969年、小説「ある開花」(岸宏子)を原作とするテレビドラマ「売らいでか!」(よみうりテレビ)の脚本を手掛ける。
1970年、静岡新聞夕刊に小説「銭の花」を連載。それを原作とするテレビドラマ「細うで繁盛記」(よみうりテレビ)の脚本を手掛ける。漫画「アパッチ野球軍」(作画:梅本さちお)の原作を手掛け、翌年よりテレビアニメがNET系で放映された。
1971年、アサヒ芸能(徳間書店)で「山善」創業者・山本猛夫をモデルとした「どてらい男」を連載。
1973年、「どてらい男」が関西テレビ製作でテレビドラマ化され脚本を手掛ける。
1976年、テレビドラマ「あかんたれ」(東海テレビ)の脚本を手掛ける。
1979年、小説「女商一代やらいでか!」を新関西新聞に連載。NHKの連続テレビ小説「鮎のうた」の脚本を手掛ける。
1980年、塚本純子をモデルとした小説「ぬかるみの女」(集英社)を執筆。東海テレビ製作でテレビドラマ化され、脚本を手掛ける。
1981年、「女商一代やらいでか!」が東海テレビ製作でテレビドラマ化され脚本を手掛ける。好評だったが引き延ばしの連続で視聴率が落ち、花登の胃潰瘍の原因となった。
1983年9月、体調を崩し昭和大学病院に入院。10月3日、肺癌のため死去。