概要
本名は岡村睦治(おかむら むつじ)。愛称は「崑ちゃん」。
高校を卒業後、神戸でキャバレーのボーイなどをしていたが、20歳の時に結核を患い右の肺を切除。この時に医者から「40歳まで生きられないだろう」と告げられ、「どうせ限られた命なら」と好きだった喜劇の世界へ入る。
1953年に放送タレントの大久保怜に師事して司会の仕事を学び、1957年に「北野劇場」(東宝系)専属コメディアンとしてデビュー。「北野劇場」のコント作家、演出家を務めていた花登筺を慕うようになる。
デビュー当時の芸名は山冠のない「大村昆」であったが、出演舞台の台本で「崑」と誤植されてしまう。しかし本人や師匠の大久保も「崑崙山のようで力強く格好良い」とこの誤植をいたく気に入り、以降の正式な芸名とした。
花登が台本を書いた『やりくりアパート』(大阪テレビ放送)、『番頭はんと丁稚どん』(毎日放送)に出演し、人気を得る。
1959年、中山千夏の強引な引き抜きに反発して花登が東宝から独立し、『劇団・笑いの王国』を旗揚げ。大村が座長に就く。同年、『笑いの王国』が全面的に関わったコメディドラマ『頓馬天狗』(よみうりテレビ)で主役を務め、人気が決定的になる。
しかし、花登の妻・由美あづさの専横、二番手に甘んじていることへの芦屋雁之助の不満など座員の対立が表面化し、1964年に『笑いの王国』は解散。
大村はその後も花登に師事し、『細うで繁盛記』(よみうりテレビ)の板前・善三、『どてらい男』(関西テレビ)の岡田支配人などを演じたが、花登が不倫の末、妻・由美と泥仕合を演じ、どちらにも恩義がある大村は板挟みとなり、花登の元を去ることとなった。
余談
- オート三輪「ダイハツ・ミゼット」や大塚製薬「オロナミンC」のCM(ホーロー看板)など、1950~60年代(昭和30年代)のテレビ黎明期を支えた看板役者の一人である。
- さらにCMから外れた今でも大塚製薬からオロナミンCが送られてくるという。
- トレードマークの下にずらしたロイド眼鏡は先輩芸人の三木のり平を意識したものである。
- ザ・ドリフターズのいかりや長介とは同じ生年月日。
- かつては上記の通り病弱であったが、80台になって夫婦でライザップに入ってトレーニングをしている。(詳細はこちら。⇒1.、2.)