経歴
横浜高校時代は4番打者で、2年次の1989年に甲子園に出場した。
1990年のドラフト会議で横浜大洋ホエールズから4位指名を受け入団。背番号は51。
1年目の1991年10月17日の中日戦で一軍初出場したが3打数無安打に終わり、2年目の1992年も一軍未出場に終わる。
球団名が「横浜ベイスターズ」に変わった1993年から徐々に才能が開花し、4年目の1994年8月9日には槇原寛己からプロ初本塁打となる満塁本塁打を放った。
1995年からは主に3番打者を任され、1997年には.335で初の首位打者を獲得するなど、石井琢朗と共に生え抜きで初の年俸1億に達し、チームの顔となる。
背番号を7に変更した1998年はマシンガン打線の中心打者としてチーム38年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献。最多安打は1本差で石井琢朗に譲ったが、打率は.337で前田智徳(広島.335)に競り勝ち2年連続の首位打者を獲得した。
西武ライオンズと対戦した日本シリーズでもシリーズ打率.480(25打数12安打)という勝負強さを発揮し日本一に貢献、シリーズMVPを受賞するなど充実した1年を送った。
1999年は安打数は自己最高の178安打(.328)を放つが、この年は同僚のロバート・ローズが192安打(.369)という驚異的な成績を残したためタイトル獲得はならなかった。
2001年には通算1000安打を達成するも、ローズの退団の影響で4番打者に入ったがホームランを意識するあまりバッティングが徐々に狂いだす。打率こそ3割を維持したものの本塁打は前年の20本から6本へと大きく減った。
2003年こそ153安打で復調するも、2004年は打撃不振に陥り、横浜高校の後輩でもある多村仁の台頭もあって、この年から徐々に成績が下降していく。
2007年には「もう一度やり直したい」という思いから、背番号を入団時の51に戻し、それまで着けていた7は巨人から移籍した仁志敏久に譲った。
しかし、成績は全盛期に既に及ばず、2008年10月6日に球団から戦力外通告を受ける。
一時は他球団への移籍を考えていたが、10月14日に現役引退を表明。「他球団のユニフォームを着てプレーする自分が想像できなかった」と語った。
現役引退後もそのまま球団に残り、2009年は湘南シーレックス(二軍)、2010年は打撃コーチを務めたが、現役時代から数えて20年に当たる2010年限りで退団。
その後は横浜ベイスターズ(2012年より「横浜DeNAベイスターズ」)の球団職員として在籍し、2020年にはBCリーグ・神奈川フューチャードリームスの監督に就任した。背番号は全盛期の7。
応援歌
1作目(1994年~1996年)
走ればラッキー 投げればラッキー タカノリ横浜ラッキーボーイ
ラッキーボーイ 勝利は君に任せた
2作目(1997年~2008年)
駆け抜けるダイヤモンド 両手を高く上げ
とどろき渡る歓声が 君の胸を焦がす