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髙木大成

たかぎたいせい

東京都出身の元プロ野球選手、野球解説者。ポジションは内野手、外野手、捕手。
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概要編集

1973年12月7日生まれ。東京都八王子市出身。

両親が前身球団であ西鉄ライオンズがあった福岡県出身で、よく西武球場に髙木を連れて観戦に来ていたことから西武ライオンズのファンになる。

小学校2年生時に野球を始める。中学時代のチームメイトには遠藤政隆アンジャッシュ渡部建がいた。

桐蔭学園高校では、1991年の第73回全国高等学校野球選手権大会に出場。3年次には1学年下に副島孔太、2学年下に高橋由伸がいた。

その1991年の甲子園大会においては、監督の方針で一番打撃の良い髙木が1番打者を務め、1回戦の熊本工業高校戦において、試合開始直後に中堅へ初球本塁打になろうかという大飛球を放った。続く2回戦の柳ヶ浦高校戦は終盤戦に髙木の適時二塁打を皮切りに連打を浴びせた桐蔭が快勝。3回戦の鹿児島実業高校戦はサヨナラ負けに終わったものの、相手ベンチの状況からヒットエンドランを察知、また牽制球で2度走者を刺している。終盤のピンチに三塁線の打球を巡って「ファウルではないか」と審判に抗議したことが「高校野球らしくない」と批判を浴びる場面もあった。大会後には高校選抜メンバーに選出され、松井秀喜らとともにアメリカ遠征に参加。代表チームのキャプテンおよび正捕手として抜擢された。

同年のプロ野球ドラフト会議前は、日本ハムファイターズなど数球団がドラフト1位候補として挙げていたが、東京六大学へ進む為、指名を辞退し、慶應義塾大学総合政策学部にAO入試で入学。このドラフト辞退はマスコミに取り上げられ話題となった。

慶応大学に入学し、打って走れる捕手の目標としている伊東勤と同じ背番号27を背負う。1年次は授業重視で野球にはあまり打ち込まなかったものの、2、3年次には外野手で、4年次には捕手でベストナインに選出。3年次には44年ぶりの天覧試合となる春季リーグ早稲田大学2回戦において初回ホームランを放ち、4年次には主将を務め背番号10を背負った。大学ではリーグ通算95試合で103安打・13本塁打・61打点・打率.286、歴代最多の27二塁打を記録。

1995年、ドラフト会議において逆指名で少年時代からの憧れである西武ライオンズに入団。背番号は10。

入団当時は当時の正捕手であった伊東勤がレギュラーポジションを確固たるものとしており、伊東には憧れの気持ちしか沸いてこなかったという。1年目の1996年は主に捕手として起用されたが、出場機会が打撃練習での調子が良い時に限られていたため「捕手として使ってもらえるよう頑張らなければ」と決意を語った。同年伊東は同年92試合の出場にとどまり「東尾修さんが監督になった95年のドラフトで西武は1位で髙木大成を指名した。私が劣っているところは何もないと思っていたが96年のシーズンに入るとよく先発から外された。コーチからの何の説明もない。こちらから聞くといつもお前を推してるんだけど。また怒りに火が付いた。」と当時を振り返っている。

翌1997年、打力を生かすため一塁手への転向を言い渡されるが、打って走れる捕手にこだわりを持つ髙木は悩んだ末に捕手を諦め、打撃に専念することを決意した。この年は3番打者として130試合に出場、打率.295・64打点・24盗塁の好成績を記録し、一塁手としてゴールデングラブ賞を受賞した。4月15日の対日本ハム戦では、プロ入り初の満塁本塁打をランニングホームランで記録した。

1998年の春季キャンプでは三塁手へコンバートされたが、シーズン開幕後は前年同様に一塁手として起用され、チームのパ・リーグ連覇に貢献、ゴールデングラブ賞を2年連続で受賞。打撃成績では、打率は.276と若干低下したものの、自己最多の17本塁打・84打点を記録した。

1999年の春季キャンプで右足首靱帯を断裂。翌年以降も左膝や右手首など怪我が相次ぎ、年々出場機会が減少する。その間、三塁手や二塁手へのコンバートに挑戦したものの、レギュラーポジションを奪うには至らなかった。2000年からは左翼手として起用されることが多くなる。2003年には4試合連続本塁打を記録するなど復活の兆しを見せるが、同年オフに手術した右腕の回復具合が思わしくなかったことから2004年はプロ入り初の一軍試合出場なしに終わった。

翌2005年もわずか13試合の一軍出場に留まり、同年10月31日に現役引退を発表。通算56本塁打中、5本の満塁本塁打を記録した。

現役引退後

引退後、当時西武ライオンズ球団の親会社であったコクド(後の西武グループ再編に伴いプリンスホテルへ吸収合併)へ入社、球団へ出向する形で営業部ファンサービスチームに在籍した。球団職員に就任したのちはファン層拡大に尽力し、入社1年目の2006年に球団公式サイト内に自身のコーナー「TAISEI LABORATORY(大成ラボ)」を開設、従来は球団からの一方的な情報発信サイトであった公式サイトにおいて、ファンとの双方向交流を目的としてアンケート企画などを実施した。その後は西武鉄道の鉄道車両を用いたラッピング電車の運行、球団CMの作成、西武鉄道の駅構内に掲示する選手ポスターの作成などを手がけたほか、西武ライオンズの本拠地である西武ドームにおける公式試合開催時には球場へ足を運び、ファンの求めに応じてサインをするなど自身も積極的にファンとの交流機会を設けた。

前年度に球団として26年ぶりのBクラスへ転落し、また球団の選手スカウティングに関わる不祥事から球団存続の危機が噂された2008年には、「球団事業のあり方を根底から見直す」目的で3ヵ年の事業計画を上司とともに策定し、専門知識を持つ人材を外部から招聘するなど球団改革に注力した。

その後球団広報部PR担当を経て、2011年12月にプリンスホテルへ異動。高輪・品川マーケティング戦略マネージャーとして、高輪・品川地区に立地する系列ホテルの回遊施策に携わっていた時期もあった。一方で2016年の西武ライオンズ宮崎・南郷キャンプでは、応援ツアー案内役や選手とのトークショーで司会役を務めるなど、球団業務にも引き続き従事している。

2017年4月にプリンスホテルから再度西武ライオンズへ異動。球団事務所での勤務となったほか、主にマスメディア担当となり球団映像の制作・販売や『LIONS BASEBALL L!VE』のゼネラルプロデューサーも務めている。2019年からはテレ玉の野球解説者として活動を開始し(2019年4月2日・西武対ロッテ戦から出演)、2020年からはフジテレビTWO・BS朝日の解説者として出演している。 2021年9月10日の西武対オリックス戦には『文化放送ライオンズナイター』のゲスト解説者として出演している。2022年時点では放映権と肖像権を扱うライツビジネス事業部部長。

選手としての特徴・人物編集

シュアで勝負強い打撃と複数ポジションをこなす高いユーティリティー性を武器に活躍。1997~98年は主に3番・一塁を任され、リーグ二連覇に大きく貢献した。

甘いマスクの持ち主で、現役時代は女性ファンが多く、「レオの貴公子」、「レオのプリンス」、「プリンス・オブ・レオ」と呼ばれた。

1998年の日本シリーズでは第1戦の前々日から頭痛や関節炎に悩まされるほど体調が悪く、試合当日も38度の高熱を押して出場。6回表の打席で横浜のエース野村弘樹から本塁打を放つ。その後の8回表には四球で出塁し、二盗に成功したが三盗に失敗。試合も敗戦した。髙木は「必ずセーフにならないといけなかった。もし、あの試合に勝っていたら、日本一になれたかもしれない」と振り返っている。

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