御船千鶴子
みふねちづこ
生涯
明治19年、熊本県に生まれる。父は士族で漢方医の御船秀益(ひでます)。
生来難聴持ちであり、成人するころには左耳が聴こえにくかったという。後に親交を持つ福来友吉は著書で千鶴子を「繊細な感受性と豊かな情緒性を持つ人物」と評している。
尋常小学校卒業後、鶴城学館女子部に進学するが、同級生との確執が原因で中退。もっとも、当時の日本では女性の学歴は必ずしも重要ではなく、卒業前に結婚等の事情で中退する女学生は少なくなかった。
明治41年、陸軍士官の男性と結婚するが、姑との確執が原因で離婚。(ある日、夫の財布からなくなった50円が姑の使っていた仏壇の引き出しにあると言い当てたことで、姑は疑いをかけられたことを苦にして自殺未遂を起こした)
その後故郷熊本に帰省し、姉夫婦の家に居候する。姉夫の清原猛雄は催眠術による心霊療法を学んだ個人開業医であり(明治時代にはこのようなオカルト染みた開業医院がしばしば見られた)、千鶴子の潜在能力に注目した猛雄は彼女に「お前は透視ができる人間だ」という催眠術をかけ、能力を引き出そうとする。この頃より、千鶴子は清原家のもとで、医院を訪れた患者の身体を透視して症状を言い当てる「診断」を行っていた。
千里眼事件
明治42年、千鶴子の評判を聞きつけた、京都帝国大学医科大学の今村新吉医学博士や、東京帝国大学文科大学の福来友吉心理学博士らによる、共同実験が始まった。
明治43年4月、熊本の清原家で福来と今村は清原夫妻の立ち会いのもと、透視実験を行う。人々に背を向け、対象物を手に持って行う千鶴子の透視が不審を招くことに配慮した福来は、背を向けても対象物を手に取らないで透視するようにさせたが、この方法では不的中に終わった。今度は清原が用意した名刺を茶壺に入れ、それに触れることを許可して透視させると、名刺の文字を言い当てたという。
千鶴子の透視能力を確信した福来は、この実験結果を心理学会で発表した。これにより、「透視」という言葉が新聞で大きく取り上げられ、真贋論争を含め大きな話題となった。
明治43年9月、物理学者で東京帝国大学の元総長・山川健次郎が立ち会いのもと、透視実験が行われた。千鶴子は鉛管の中の文字の透視を成功させたものの、それは山川の用意したものではなく、福来が練習用に千鶴子に与えたものであったことが発覚する。このすり替え事件をきっかけに、新聞は千鶴子の透視能力について否定的な論調を強めて行った。
明治44年1月18日、服毒自殺を図り、翌19日未明に死亡。享年24歳。
一般には、新聞や世間からの激しい攻撃に耐えられず自殺したといわれるが、地元では自殺の原因は父親との金銭的なトラブルによるものだと見られていた。
翌月には、千鶴子の記事をきっかけに透視・念写能力に目覚めた長尾郁子が急逝している。
死因は急性肺炎であるが、心身の疲労が原因とする見方もあり、以前の山川健次郎による公開実験で、山川側が写真乾板を入れ忘れて念写を依頼する手違いがあり、山川が謝罪して何とか実験が続行されることになったが、郁子の超能力を疑う学者が一方的に「透視と念写は全くの詐欺である」旨の見解を報道陣に発表した事で、郁子が以後の実験を全く拒否しており、その渦中の訃報であったことからその因果関係が指摘されている。