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概要編集

生年は不詳。現在の河南省上蔡の生まれ。商鞅と並び称される法家

に仕えていた頃、ネズミが縄張りにしている場所で性格が違うことに気づき、儒学者の荀子に入門。その際、後に法家の代表的人物となる韓非(韓非子)がおり、ともに学んだとされる。

その後呂不韋の推薦を受けに入り、嬴政(のちの始皇帝)に仕える。

やがて幾多の困難の果てに秦は天下を統一。功労者の李斯は封建制から中央集権制(郡県制)への転換を説き重用され、丞相にまで出世する。

紀元前210年に始皇帝が行幸先で崩御。李斯は執事の宦官趙高とともに遺書を改竄。長子の扶蘇ではなく、暗愚であった末子の胡亥を跡継ぎとするようにした。

しかし、彼らの蜜月も長続きしなかった。始皇帝の死後、民衆の不満は吹き出し、陳勝呉広の乱が勃発。李斯はこれを鎮圧するよう皇帝に度々諫言するも全く聞き入れられず、即位2年後の紀元前208年、李斯は趙高一派から謀反の疑いを掛けられ逮捕。苛烈な拷問を受けさせられて無理矢理罪を認めさせられ、顔中を切り裂かれたうえに胴体を真っ二つにされ処刑、更に九族斬罪の憂き目に遭う。

かくして李斯は「法家は法で死ぬ」という商鞅と同じ末路を遂げることとなってしまった。


フィクションにおける李斯編集

キングダム編集

CV:青木強


呂不韋四柱の一人として登場。

確実さを重視する生真面目な性格をしており、「法の番人」という異名を持っている。

商人の視点から物事を見ている呂不韋の考えを理解できずに、振り回されることが多い。


呂不韋の相国昇格に伴って左丞相への抜擢を有力視されていたが、昌文君に左丞相の座を奪われた。呂不韋失脚に伴い投獄されるも、嬴政の持つ「法治主義」に賛同し翌年に恩赦が出される。

本人曰く韓非子は自身に並ぶ法家とのこと。


達人伝編集

荀子の弟子で韓非と同門。趙から遊学に来ていた龐煖からは嫌われていた。春申君が秦へ使者に赴く際、項燕項羽の祖父)らと共に随行員に選ばれそのまま秦に仕える。

天下統一を目標とする政の志にいち早く共鳴しており、政の苛烈なやり方に懐疑的な呂不韋に代わって政の信頼を集める。謀略にも長けており信陵君を失脚させたり李牧を処刑させることに成功している。

始皇帝死後の経緯は史実と同じであり、最後は趙高の謀略に掛かり趙高に加担したことを悔やみながら処刑された。


関連タグ編集

秦朝 呂不韋 趙高 韓非

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狡兎死して走狗烹らる

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