概要
レイテ沖海戦とは、1944年10月23日~同月25日にかけて行われた連合国軍(アメリカ海軍・オーストラリア海軍)と日本海軍による一連の海戦の総称。
フィリピン中部にあるレイテ島の争奪が主目標となったためこの名がある。
一連の海戦で連合国側が圧勝し、日本海軍は実質的に大規模な組織的戦闘が不可能となった。日本海軍軍人の戦死者は7,500人を超え、生き残りもその後のフィリピンでの陸上戦で多くが死亡した。
多くの『艦これ』提督にとっては、史実を調べた際に多くの艦娘の最期となった戦いとして知った人も多いだろう。
両軍の行動の詳細な内容や栗田艦隊に対する論評はWikipedia等に譲るとして、ここでは艦隊これくしょんに関連した日本海軍の動きを中心に説明する。
経緯
開戦直後、日本軍の快進撃の前にアメリカは植民地フィリピンの防衛を断念し、フィリピンは日本軍に占領された。
しかし後に戦況は逆転、各地で次々と日本軍を破ったアメリカ軍はフィリピンの奪回を企図し、マリアナ沖海戦にて日本海軍機動部隊を壊滅させたアメリカ太平洋艦隊の支援の下、"I shall return"(私は必ず戻る)の名言を残してフィリピンを去ったダグラス・マッカーサー将軍の率いる陸軍の大部隊をフィリピン中部・レイテ島に差し向ける。
フィリピンを失えば南方資源の輸送路を絶たれ以後の作戦が困難となるうえ無条件降伏を避ける為にアメリカ軍に後1度大打撃を与えて条件付きの講和に持ち込みたかった日本軍は動員可能な戦闘艦艇と航空機を集めて迎撃準備を行っていた。
かくしてフィリピン近海で太平洋戦争史上最大規模の艦隊決戦が行われようとしていた。
日本海軍の作戦
先のマリアナ沖海戦に完敗し、既に航空戦力の大半を失っていた日本海軍にとって戦力と言えるのは戦艦をはじめとする水上艦艇のみであった。
しかし、航空支援の無い状態でアメリカ機動部隊に挑んでも到底勝ち目は無く、背水の日本海軍は連合艦隊参謀の神重徳大佐発案による現在の海戦での主役の空母を囮とし開戦以来空母に主役を奪われて不遇をかこっていた大和などの戦艦を敵上陸地点に殴り込ませようという奇策を採用する。
台湾沖航空戦に再建途上の艦載機部隊を投入されて大損害を出し、もはや規模・練度ともに戦力として期待できない機動部隊ではあったが、日本側の実状を知らないハルゼーがこれを見れば全力で襲い掛かるであろうし(ハルゼーはマリアナ沖海戦での大鳳、翔鶴の沈没を知らなかった)日本本土方面に後退しつつ引き寄せればすぐにはレイテに戻る事が出来ない。正に作戦の成否は機動部隊にかかっていると言えた。機動部隊の参謀達からは艦隊の使用方法に反対の声があがったが最終的に小沢治三郎中将が出撃を了承し、機動部隊は出撃準備を開始した。しかし着艦出来る搭乗員が数えるほどしか存在しない為、途中大分に寄港して陸上から飛行機を艦内に収容し、4隻の空母になんとかアメリカ正規空母1隻分の艦載機を搭載出来た。
参加艦隊は以下の通り。各艦隊の名前は指揮官の名前からとられた通称で正式な艦隊名ではない。
栗田艦隊:第二艦隊。指揮官は栗田健男中将。リンガから出撃し、ブルネイ経由でパラワン水道、サンベルナルジノ海峡を通過しサマール島沿いを北方からレイテ湾に突入する。主力は大和・武蔵・長門の第一戦隊、金剛・榛名の第三戦隊で、その他に愛宕、妙高、熊野を始めとする重巡部隊や軽巡能代を旗艦とする第二水雷戦隊、軽巡矢矧を旗艦とする第十戦隊で編成。
西村艦隊:第二艦隊から分派された別働隊。指揮官は西村祥治中将。ブルネイ以降はスールー海を航行しスリガオ海峡からレイテ湾に突入する。山城・扶桑の第二戦隊と重巡最上と駆逐艦満潮以下4隻で編成。
志摩艦隊:元々は北方担当の第五艦隊で小沢治三郎中将の指揮下にあったが作戦発動直後に急遽レイテ突入命令が下る。指揮官は志摩清英中将。台湾馬公から出撃しコロン湾経由の後に西村艦隊と共同し、スリガオ海峡からレイテ湾に突入する。旗艦の那智以下、足柄と阿武隈を旗艦とする第一水雷戦隊から編成される。
小沢艦隊:第三艦隊。空母機動部隊。指揮官は小沢治三郎中将。日本本土から南下し、アメリカ機動部隊の攻撃を引き付ける。瑞鶴・瑞鳳・千歳・千代田の第三航空戦隊、伊勢・日向の第四航空戦隊、軽巡大淀、五十鈴、多摩など。
その他に潜水艦艦隊の第六艦隊と基地航空部隊の第一、第二の両航空艦隊が参加した。
日本本土には隼鷹、龍鳳、雲龍、天城などの空母が残留していたがこれらは艦載機の不足と練度の問題で出撃出来なかった。
マニラでの会合
レイテ沖海戦に先立つ8月11日フィリピンのマニラで連合艦隊参謀の神重徳大佐とリンガに進出していた第二艦隊(栗田艦隊)の参謀長小柳富次少将(元金剛艦長)による打合せが行われた。神大佐は作戦を説明し全滅を賭しても敵輸送船団を殲滅するように通達する。これに対し小柳少将は敵主力艦隊撃滅を主張するが連合艦隊の決意を知り作戦を受け入れる。しかし会議の途中小柳が神に「連合艦隊がそれだけの決心をしておられるならよくわかった。ただし、突入作戦は簡単に出来るものではない。敵艦隊はその全力を挙げてこれを阻止するであろう。したがって、好むと好まざるとを問わず、敵主力との決戦なくして突入作戦を実現するなどという事は不可能である。よって、栗田艦隊は命令どおり輸送船団に向って突進するが、途中敵主力部隊と対立し二者いずれかを選ぶべきやに惑う場合には、輸送船団を棄てて、敵主力の撃滅に専念するが、差支えないか。」と問うと神は「差し支えありません。」と答えた。この時、連合艦隊司令部と栗田艦隊との間に作戦目的に対する認識のズレが生じたが出撃までに解消されなかった。
ともかく作戦目標が決定した栗田艦隊は敵輸送船団を撃滅する為の訓練などの準備を進めながら捷号作戦の発動を待つ事になった。(捷一号はフィリピン。捷四号は北海道という具合にどの方面に敵が来たかで発動される数字が違う。)
なお作戦開始前に栗田中将は旗艦として従来の旗艦重巡愛宕ではなく司令部設備に優れた大和型戦艦、特に戦艦武蔵の使用許可を求めたが連合艦隊参謀長草鹿龍之介中将(元南雲機動部隊参謀長)に却下された。
初の神風特別攻撃隊の投入
また、本海戦は同時に神風特別攻撃隊が初めて実戦投入された戦いとしても知られている。
この戦いでフィリピンに展開していた陸上航空部隊の第一航空艦隊と第二航空艦隊は栗田艦隊の上空援護の任務を与えられていた。
しかし台湾沖航空戦による損害と上陸前のアメリカ艦隊の事前空襲によって使用可能機体が大幅に減少してしまった。海戦直前の20日に第一航空艦隊司令長官に着任した大西瀧治郎中将は栗田艦隊への空襲を防ぐ方法として敵空母の飛行甲板をしばらくの間使用不可とするべく零式艦上戦闘機に250kg爆弾を搭載して体当たり攻撃を行う部隊の編制を命じる。指揮官には海軍兵学校出身の関行雄大尉が指名された。隊員は強制ではなく全て志願制で24名の隊員が選抜され4つの部隊に分けられた。特攻隊はサマール沖海戦直後のアメリカ護衛空母部隊を攻撃し護衛空母1隻を撃沈した。大西自身はこのフィリピンのみでの戦法と考えていたがレイテの大敗でまともな攻撃手段を失った海軍は護衛空母を撃沈した特攻の威力を過信し訓練に時間のかかる爆撃、雷撃などの通常攻撃をやめ、短い訓練で大量に配備出来、1人の命で敵艦にダメージを与えられる「統率の外道」と呼ばれたこの戦法で終戦まで戦う事になる。
捷一号作戦発動
10月18日、「アメリカ軍、レイテ湾スルアン島に上陸を開始」の報告を受けた日本軍大本営は捷一号作戦を発動。ただちに連合艦隊司令長官豊田副武大将より各艦隊に指令が通達されレイテ沖海戦の幕が開けた。
戦いの流れ
前哨戦(10月23日)
アメリカ軍を迎え撃つ日本艦隊のうち、栗田健男中将指揮の大和・武蔵・長門の第一戦隊を擁する最強の戦艦部隊・栗田艦隊は、10月18日リンガ泊地を出港、途中ブルネイにて給油を行い22日にブルネイを出撃、一路レイテ湾に向かってパラワン水道を航行していた。
しかし、狭い水道内でアメリカ潜水艦の襲撃を受け、一瞬にして旗艦の重巡愛宕と摩耶が轟沈、高雄も大破して駆逐艦長波、朝霜の護衛でブルネイに撤退する。旗艦を沈められた栗田中将は駆逐艦岸波に救助されたのち、予備旗艦に指定していた戦艦大和に移乗したが大和の艦橋は右舷に栗田中将の第二艦隊司令部、左舷に宇垣纒中将の第一戦隊司令部が同居する形になり艦橋内は異様な雰囲気が漂った。これ以後栗田中将は大和を旗艦として指揮を継続する。この時救助された摩耶乗組員のうち769名は駆逐艦秋霜経由で武蔵に移乗しシブヤン海海戦を戦う事になる。愛宕にいた司令部の通信要員の多くが大和に移乗出来ず、この事が後に栗田の敵情判断に影響した。
栗田艦隊は、敵艦と戦う前から強力な重巡洋艦3隻を一度に失うという被害を受け、出鼻をくじかれる羽目になった。
シブヤン海海戦(10月24日)
小沢中将率いる機動部隊による囮作戦は未だに効果を上げず、潜水艦や偵察機の情報を元にアメリカ軍は日本艦隊の動きを察知、艦載機群による攻撃を開始する。
本来なら行われるはずだった基地航空隊による航空支援の無い艦隊は武蔵を筆頭にただひたすら攻撃を受け続け、重巡洋艦妙高は魚雷命中により速力が12ノットに低下し戦場を離脱、第五戦隊は旗艦を羽黒に変更。さらに大和に爆弾1発、長門には爆弾2発で一時速力低下、利根に爆弾2発、浜風は爆弾1発命中により火災発生で速力低下、など各艦にも被害が出始めていた。
艦隊各艦の損害を見た栗田提督は一時反転して空襲を避けることを決意。満身創痍の武蔵に重巡利根、駆逐艦清霜、浜風を護衛につけコロン湾回航を命じ、15時30分に艦隊を西方に反転させる(17時14分に再度反転レイテへ進撃再開)。10時26分から14時59分まで行われたこの攻撃で集中攻撃を受けた大和型戦艦2隻のうち大和は艦長森下信衛少将の「回避運動適宜」と記されたほどの巧みな操艦で損傷を軽微に留めたものの猪口敏平少将指揮の武蔵は魚雷20本、爆弾17発という軍艦史上空前絶後の損害を受け同日19時35分頃、一度も敵艦を見ないまま沈み、乗員は清霜と浜風に救助され両艦はそのままマニラへ撤退。摩耶の乗組員の生存者は18時30分頃に武蔵左舷舷側に接舷した駆逐艦島風に移乗し島風でもこの後の戦闘に参加した。この時点で南から進撃してくる西村・志摩の両艦隊との25日黎明のレイテ湾同時突入は不可能となり以後の作戦が大きく狂う事になった。
一説によると武蔵は「被害担当艦」として出撃前に目立つ塗装が施され、その為に艦載機の攻撃が集中したとも言われている。また旗艦ではないので大和よりも輪形陣の外側に配置された事も原因との説もある。
スリガオ海峡海戦(10月25日)
山城・扶桑を主力とする西村艦隊は、北方からレイテ湾に突入する栗田艦隊と呼応して南のスリガオ海峡から突入する使命を受けて進撃していた。途中アメリカ艦載機の攻撃を受けるが敵の目が栗田艦隊に向いていたため、たいした被害もなく航行を続けていた。
しかし、スリガオ海峡には真珠湾で撃沈されたのち復活をとげたアメリカ旧式戦艦部隊が展開しており、偵察およびレーダーにより西村艦隊の動向を把握、鉄壁の迎撃態勢を敷いていた。
栗田艦隊の現在の状況から同時突入が不可能と知った西村中将は自艦隊の状況を栗田提督に報告したが栗田からは何も指示がなく、やむなく本来の予定の突入時間を4時間も繰り上げて1時48分、敵艦隊の待ち受ける夜間のスリガオ海峡に単独突入した。3時28分頃、戦艦扶桑がアメリカ駆逐艦から受けた4本の魚雷による損害で弾薬庫に引火し大爆発を起こして船体が分断して前後が漂流。駆逐艦満潮ら3隻も被雷航行不能ののち沈没。西村艦隊は損害を省みず突進するも3時51分、アメリカ戦艦部隊からレーダー管制の猛砲撃を受け、戦艦山城は弾薬庫引火の大爆発で艦橋が崩落。4時19分に沈没した。わずか数十分で艦隊最後尾にいた駆逐艦時雨と大破状態の最上を残して西村艦隊は全滅し西村中将は戦死。沈没した艦の乗組員の生存者はほんのわずかな人数だった。
西村艦隊の後続である志摩清英中将率いる志摩艦隊は4時33分、スリガオ海峡に突入を開始したが軽巡阿武隈が魚雷艇の攻撃で被雷。さらに先ほどの戦闘で大破して洋上停止中の敵艦と誤認された最上を回避するべく転舵した旗艦那智が実際には微速で移動していた最上と衝突した。志摩中将は撤退を決意して艦隊は海峡を脱出し阿武隈に駆逐艦潮を、最上に駆逐艦曙を護衛につけてコロン湾に向かわせるが空襲受け阿武隈は沈没、最上は総員退艦後に曙の魚雷で処分される。栗田艦隊旗艦大和は5時32分、西村艦隊の全滅を知る。志摩艦隊を待たずに単独突入を決意した西村中将の評価は分かれているが後に小沢治三郎中将は「レイテで本当に真剣に戦ったのは西村だけだった。」と評した。
エンガノ岬沖海戦(10月25日)
栗田艦隊のレイテ湾突入を助ける為、囮役となるべく南下を続けていた小沢艦隊は、ついにアメリカ海軍ハルゼー機動部隊をサンベルナルジノ海峡より釣り上げる事に成功する。
ハルゼーを出来るだけ長く、そして出来るだけレイテから遠くに引き離すため全滅覚悟の日本海軍最後の機動部隊の戦いが始まった。
8時15分、アメリカ艦載機群第1次攻撃隊180機の攻撃を受けた空母機動部隊は、まず空母千歳と駆逐艦秋月が撃沈され空母瑞鶴、軽巡多摩が被雷で速力低下。10時ごろに第2次攻撃隊36機が来襲し千代田が大破炎上し行動不可になり艦隊から落伍。小沢中将は10時51分旗艦を瑞鶴から軽巡大淀に変更し以後は大淀から指揮をとる。
一方、小沢艦隊に引き寄せられたハルゼーは10時過ぎにハワイの太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将より「第34任務部隊は何処にありや。全世界は知らんと欲す」との電文を受け激怒したが、サマール沖で栗田艦隊と遭遇した護衛空母部隊やその部隊の上官である第七艦隊司令長官のキンケイド中将から救援要請の電文が来ていた事もあり、11時15分、艦隊のおよそ半数を率いてレイテに引き返した。以後小沢艦隊への攻撃は残った半数の艦隊が継続した。
13時過ぎ第3次攻撃隊200機が日本艦隊上空に来襲。この攻撃で空母瑞鶴と瑞鳳が損傷を受け、14時14分真珠湾以来の武勲艦であり幸運艦と謳われた空母瑞鶴が沈み、14時20分軽巡五十鈴が被弾して操舵不能になり、15時27分最後に残った瑞鳳も撃沈されるに及び、ここに栄光の日本海軍機動部隊は消滅した。
16時40分、艦隊より落伍していた千代田はハルゼーが引き返す際に分離した追撃のアメリカ重巡洋艦部隊に捕捉され、行動不能なまま高角砲により必死の反撃を行い味方の撤退の為の時間を稼ぐも、猛砲撃を受けて撃沈されている。
空母全滅後の17時過ぎに第4次攻撃隊150機の空襲を受けるが第四航空戦隊航空戦艦伊勢と日向の噴進砲などの強力な対空火力を用いた弾幕射撃と新米艦長ではあったものの戦隊司令松田千秋少将の回避マニュアルを習得した両艦艦長中瀬泝、野村留吉の的確な操艦術でこの攻撃を切り抜け、残存艦艇の大部分は日本本土への撤退に成功し、栗田艦隊のレイテ突入のチャンスを作り出したが、大和の栗田のもとには明確に敵艦隊誘致成功を知らせる電文は届かなかった。
サマール沖海戦(10月25日)
シブヤン海海戦ののち進撃を再開した栗田艦隊は25日0時30分、ハルゼーが小沢艦隊に引き寄せられて封鎖を解いたサンベルナルジノ海峡を抜け太平洋に姿を現した。この時点での栗田艦隊の勢力は戦艦4隻、重巡洋艦6隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦11隻まで減少していたが栗田をはじめ艦隊将兵はレイテ突入を諦めてはいなかった。
6時23分、大和の対空電探が敵機を探知し艦隊は対空戦闘に備えて陣形を執り始めた。6時45分頃、大和の見張り員が35km先のマストを確認。それは上陸支援任務を行っていたアメリカ海軍護衛空母部隊、コードネームタフィ3であったが栗田艦隊はこれを正規空母6隻の主力機動部隊と誤認。戦艦大和(長門も)唯一の対水上砲撃戦サマール沖海戦の開始である。
艦隊は6時57分に攻撃を開始した。大和が3万2千mで第一並びに第二主砲の初弾斉射。長門も砲撃開始。
栗田の指示で第五戦隊、第七戦隊と水雷戦隊が突撃を開始。なお第一戦隊の指揮は栗田ではなく同じ艦橋にいた第一戦隊司令官宇垣纒中将(山本五十六長官時の連合艦隊参謀長)が執った。
世界一の戦艦の砲撃にさらされたタフィ3はスコールにたびたび身を隠して逃走を図りつつ保有の艦載機と護衛の駆逐艦による反撃が行われた。7時24分、重巡熊野が敵駆逐艦の魚雷を艦首に受け艦首が破壊され落伍。同時刻、重巡鈴谷が航空攻撃による至近弾により速力低下して落伍。7時54分、アメリカ駆逐艦の魚雷を第一戦隊(大和、長門、第三戦隊より榛名)が急速一斉回頭で回避するも魚雷の速力が遅く約10分ほど大和は魚雷と並走し敵艦隊との距離が開く。その後追撃再開するも新たに空母3隻を発見し榛名を追撃の為分離。栗田はこの時点で空母9隻と交戦していると考えていた。
一方その頃護衛空母部隊に接近した重巡部隊と水雷戦隊は敵艦載機による手痛い反撃を受けていた。8時50分、重巡鳥海が被弾して落伍。8時53分には重巡筑摩が雷撃で航行不能となる。両艦の漂流は大和からも確認されている。残る羽黒と利根は攻撃を続行するも羽黒が二番砲塔に直撃弾を受け砲塔破壊。同じ頃、敵空母への突撃命令を出した第十戦隊旗艦軽巡矢矧の艦橋に敵機が機銃掃射を行い矢矧の艦橋人員に死傷者が発生。
9時12分各艦からの戦果報告で十分な戦果を上げたと判断した栗田は艦隊に集結命令を出す。大和艦橋の第一戦隊司令宇垣は追撃続行を進言しかけたが「命令なら仕方がない。」と進言を取りやめた。
しかし集合を命じた栗田の元に集まったのは戦艦は4隻(大和含む)とも健在だったが、重巡はわずか2隻(羽黒、利根)だった。鈴谷は搭載魚雷が誘爆し13時20分頃に沈没。鳥海は駆逐艦藤波の魚雷で雷撃処分。筑摩は敵艦載機の攻撃で午後4時頃に沈没し生存者は駆逐艦野分が救助した。熊野は沈没を免れコロン湾目指して戦場を離脱した。ブルネイ出撃時は10隻いた栗田艦隊の重巡はこうして出撃から3日で5分の1まで減っていた。
謎の反転
サマール沖での追撃を打ち切り、指揮下の艦隊を集結させていた栗田の元に11時頃、栗田艦隊の北方に敵機動部隊が存在する事を知らせる電文が届いた(この電文はなかったとも言われる。なお、その場所には敵機動部隊はいなかった。)がこれに対する栗田の反応は「この機動部隊は基地航空隊に任せて艦隊はレイテに向かう」だった。11時20分、艦隊は進撃を再開するが12時36分、突如栗田は「先ほど報告のあった敵機動部隊との決戦」の為に全艦に反転を命じる。しかし存在しない機動部隊に出会えるわけが無く13時に艦隊は再びレイテ方面に反転する。このレイテ前でウロウロしている間に先ほどのタフィ3などから艦載機が襲来。上記の様に落伍していた鈴谷が沈没。利根もさらに被害を受けてしまった。大和では栗田と小柳参謀長以下司令部が協議を行い(この辺りは戦後栗田と小柳で証言が食い違っている。)全艦の反転北上を決定した。大和艦橋の第一戦隊司令宇垣は猛反対するも命令は変わらず艦隊は反転、そしてそのままレイテには向かわずサンベルナルジノ海峡目指して艦隊は撤退していった。
この時をもってレイテ突入の機会は永遠に失われた。空母を全て失った小沢艦隊の奮闘も、作戦が狂った為に単独突入した西村艦隊の壊滅も、武蔵をはじめとする指揮下艦艇の喪失も、そして何より戦死した数千の将兵の犠牲も全て無駄になってしまった。
栗田は撤退中のサンベルナルジノ海峡直前で小沢艦隊の作戦成功を知って後悔したが、もう手遅れだった。
ブルネイへの逃避行~さらなる損害~
栗田艦隊は撤退を開始したがレイテ沖海戦はまだ終わっていなかった。
19時15分、栗田は落伍した艦の処分とコロン湾への撤退命令を護衛の駆逐艦に出し、21時5分、サンベルナルジノ海峡通過に成功。3時間程の差で追撃の水上部隊を振り切った。しかしこの部隊は筑摩の乗員を救助していた駆逐艦野分を捕捉、26日1時35分、救助した筑摩乗組員と共に野分は総員戦死で沈没。同日払暁に栗田艦隊はミンドロ島の南で敵機動部隊の偵察機により再捕捉され日の出と共に空襲を受ける。この攻撃で軽巡能代は沈没。退避中の熊野と駆逐艦早霜が損傷。早霜は無人島に退避するが続く空襲で擱座。早霜の救援に向かった藤波は沈没し乗員は救助した鳥海乗組員もろとも総員戦死。さらには戦艦大和も2発の直撃弾を受け3000トンの浸水が発生した。
そして28日21時30分、艦隊はブルネイに到着。各艦の燃料は底をつきかけておりギリギリの帰還だった。
その後
海軍の動き
11月16日、戦艦大和、長門、金剛、軽巡矢矧、駆逐艦磯風、浦風、浜風、雪風は本土に帰還すべくブルネイを出港したが、11月21日深夜、途中の台湾海峡で戦艦金剛と駆逐艦浦風が敵潜水艦の攻撃で撃沈されてしまう。金剛は乗員1300名戦死、浦風は総員戦死した。
この時大和と共に日本本土に帰還した栗田は兵学校の校長となりそのまま終戦を迎えたが戦後も謎の反転に関してほとんど語らず1977年この世を去った。
レイテ沖海戦で多くの艦艇を失った日本海軍は、大規模な艦隊を編成して戦う力を完全に失った。
ブルネイやリンガに残った各艦艇もオルモック輸送や日本本土への帰還の途上などで艦載機や潜水艦の襲撃を受け次々と沈められていったが榛名や利根、北号作戦で帰還した伊勢、日向、大淀の様に本土へ戻れた艦もいた。しかしそれらの艦も燃料不足で二度と出撃出来なかった。
そして1945年4月6日、帝国海軍の意地と面子の為、内地に残った重油をかき集めて戦艦大和の水上特攻が発動され3000人を超える乗員とともに生還の望めぬ海へ出撃していくことになる。
フィリピン 終戦まで
レイテをめぐる一連の戦いでアメリカ軍に大打撃を与えて講和に持ち込むという日本軍の戦略は完全に崩壊したが、以後も日本軍首脳部は無条件降伏による国体の変更だけは避けるべく絶望的な戦いを続ける。レイテのみであったはずの特攻を組織化し多数の若者がアメリカ軍に突っ込んでいった。
1945年1月2日、小磯首相は、レイテ決戦をルソンを含んだフィリピン全体の決戦に拡大すると発表し、事実上レイテ決戦の敗北を認めた。
日本海軍連合艦隊を撃退した連合国軍は、フィリピン各地に飛行場を設置し、航空機による通商破壊を本格化して日本の南方航路を封鎖した。日本は、戦艦まで輸送任務に転用して北号作戦や南号作戦を行い資源輸送に努めたが、1945年3月を最後に南方航路が維持できない状態になり、日本内地では石油が枯渇、艦隊の行動は難しい状態になった。
レイテの次の決戦場所となったルソン島のマニラ(フィリピンの首府)では70万人のフィリピン人市民が残っていたにもかかわらず大規模な市街戦が行われ、日本兵1万2000人と戦争に巻き込まれたフィリピン人10万人が死亡。マニラ防衛を命じられた熊野や木曾の生き残りもその多くが戦死してしまう。日米両軍の戦闘により、「東洋の真珠」とも呼ばれたマニラの遺産は、建築物も美術品もすっかり消滅した。これはフィリピン最大の国民的悲劇の一つとされている。
一方でレイテ島への上陸を果たしたマッカーサーは"I have returned"(フィリピンよ、私は帰ってきた)の名言を残す事になるがマレーの虎の異名を持つ山下奉文大将率いる日本陸軍の抵抗も激しく結局終戦までフィリピン全土を奪回出来ず玉音放送後の9月3日に山下大将が降伏してようやく全土制圧に成功した。
本海戦関連で日本海軍が喪失した艦艇
前哨戦(10月23日)
シブヤン海海戦(10月24日)
スリガオ海峡海戦(10月25日)
エンガノ岬沖海戦(10月25日)
サマール沖海戦(10月25日)
10月26日以降
※なお、連合軍側艦隊の損耗は軽空母1隻、護衛空母2隻、駆逐艦・護衛駆逐艦3隻。