この国は東南アジアのインドシナ半島西部に位置する国家であり、正式名称はミャンマー連邦共和国。かつての国名はビルマ連邦であった。西側をインドおよびバングラデシュと接しており、東側は南部でタイと、北部で中国と接している。
概要
首都は2006年よりネピドー(首都となるために新たに作られた都市であり、内陸部に位置する、移転の理由は複数の説がささやかれている)。最大都市はヤンゴン(旧名ラングーン、南部のエーヤワディー川がアンダマン海と合流するデルタ地帯に存在、1885年より2006年まで首都)である。1948年にイギリスより独立、1989年までビルマと呼ばれてい。長く軍事政権時代が続き、現在民主化の途上にある(そのため他国ではこの国名や地名の変更を認めていない場合も存在する)。2010年10月21日に国旗を変更した。
多数派であるビルマ族(モンゴロイドであり、ビルマ語を話す、宗教は上座部仏教)の他、多くの民族が存在しており、北部(カチン独立機構)や北東部(ビルマ共産党の流れを引くワ州連合軍)、南東部(カレン民族同盟)などでは紛争が絶えない。
ちなみにビルマ族は姓がない。アウンサンスーチー女史(1980年代より民主化運動を開始するも自宅軟禁され続けた人物であり、1991年にノーベル賞受賞。なお、大統領には夫がイギリス人であり、子供がイギリス籍であるためなれないとされる)の名は父アウン・サン将軍(当初よりミャンマーからイギリスからの独立を目指した人物であり、後に日本の力を借りて傀儡ではあるが独立、国防相となる、反ファシスト組織を組織し日本を裏切り、イギリス軍の支配下に入るもイギリスは完全独立を許さなかったため抵抗を続けるも1948年、6人の閣僚とともに暗殺される)に因んだものなので、「アウンサン」が姓、「スーチー」が名と誤解されがちであるが、全体で一つの名前である。
歴史
本来この国にはモン族(ラオスの人々と近いとされ浅黒い肌にぎょろりとした目を持つ民族、8世紀から11世紀までタイにも彼らの王国が存在した)が南部の下ビルマに、北部の上ビルマにはピュー人(おそらく南インドから来た人々であるとされるが、詳細不明)が暮らしていたとされるが、北部の人々は9世紀には南詔(7世紀から10世紀はじめまでに雲南に存在した王国であり、四川や東南アジアにも勢力を持っていた)により雲南に移住させられたといわれている。
南部には引き続きモン族が別の王国を立てるが、北部は一時誰も統治されない土地となっていたが、そこに1044年にビルマ族がパガン王国をたて、下ビルマの王国を1057年に滅亡させ、統一する。
この国は13世紀まで存在したものの、モンゴルの侵攻により滅亡する。
滅亡後は下ビルマにはモン族のペグー王朝が、上ビルマにはシャン族(タイ人に近い民族であり、農耕民族。上座部仏教およびアニミズムを信仰)のピンヤ朝およびアヴァ王朝が成立した。これらの国は互いに争ったといわれる。
ところが、15世紀にビルマ族によりタウングー王朝が成立すると16世紀にはこの二つの王国を併合、さらには現在の東インド、タイ、雲南なども支配下に置いた。その後17世紀に東インドはムガル帝国に奪われ、国は疲弊し南北に分離した。
18世紀半ばに上ビルマのモーソーポ集落の首長であったアウンゼーヤがアラウンパヤー(菩薩の意味)を名乗りビルマを統一(コンバウン王朝)した。
この王国はタイや清朝などと戦争を行ったものの、結果は芳しいものではなかった。
そして19世紀、インド(もうすでにこのときにはイギリスの支配下にあった)と戦争を開始、この戦いには勝てず、領土の一部を失う。
今度は1852年イギリスから仕掛けられ、下ビルマを失い、さらに戦争を仕掛けられて1886年には全土を支配され、インドの一部となった。
イギリスによる支配に反対する流れは第一次世界大戦以後発生したが、そのときは弾圧により制圧された。1937年、インドより分離された。
第二次世界大戦においては当初中国共産党の力を借りる予定であったが、イギリスと敵対していた大日本帝国の力を借りることとなり、イギリス領インド軍を蹴散らした後傀儡ではあるが独立国、ビルマ国となった。
しかし戦況が連合国有利となるとあっさり日本を裏切りクーデターを起こし連合国側につく。
第二次世界大戦後は再びイギリスの支配下となるが、国内は混乱し、重要人物の暗殺も発生した。
1948年、ビルマ連邦としてイギリスより独立。しかし国内の混乱はやまず、さらに中国国民党が国内に侵入し、アメリカもそれを援助する、という有様であり、国内は安定していなかった。
そのため軍部は国内の安定に力を入れ、何とか治安を回復していった。
しかしその過程において軍部の力が増大し、1962年、国防相であったネ・ウィンはクーデターを起こし、軍事政権が成立。1974年には憲法を制定し、ビルマ連邦社会主義共和国となった。
この政権においては外交において厳格な中立主義を貫きベトナム戦争などの影響を受けず成功はしていたものの、経済に関しては鎖国政策に近い状況であったため、最貧国に近い状況となってしまった。
1988年にはネ・ウィンが8888民主化運動によりビルマ社会主義計画党党首を辞任し、国名をビルマ連邦に戻すものの、軍部のクーデターにより軍事政権は続行、1989年にはミャンマー連邦に国名を変更。総選挙は行われたものの議会の召集は去れず、民主化勢力は弾圧された。
2007年にテイン・セインが首相となると政治改革が行われるようになり、2010年には選挙が行われたものの、軍事政権の翼賛政党が過半数を握った。2012年の選挙以降は野党が勝利し続け、現在ではNLDが第一党となっている。
国土
気候は亜熱帯あるいは熱帯であるが、山岳地帯である北部とそうではない南部では大幅に気候は異なる。
この国の南北間には交通が存在するものの、大河が存在しているため東西間は分断された状況にある。
国際関係
この国は長らくの軍事独裁を行ったため西側諸国、特に歴史的経緯上いろいろ問題であるアメリカ合衆国やイギリスと仲が悪かったとされ、現代においても禁輸処置がとられている状況である。
一方、国の政策は中立政策を採っており、なるべく他国とのかかわりを避けるような動きを見せていたが、1997年にはASEANに加入したり、
近年の民主化の流れによりインドおよび中華人民共和国とも仲が悪くない。また、軍事独裁国家である朝鮮民主主義人民共和国(工作員が大韓民国大統領であった全斗煥暗殺を狙いアウンサン廟にクレイモアを仕掛け爆発させ、韓国およびビルマの官僚を殺害したものの大統領暗殺には失敗したラングーン事件時に断交したが、その後主として国際的非難の牽制および軍事的な技術供与のため2006年10月に回復)とも関係は悪くない。
日本との関係
日本とは比較的友好的な関係であり、日本の戦後賠償を含む金銭的サポートや日系企業の進出、軍事政権時の国家元首が日本軍に関係していたこと、西側諸国の関係途絶の際も窓口を空けていたことなどが要因であると思われる。
日本関係の余談
なお、太平洋戦争(大東亜戦争)時に、アウンサン・スーチー女史の父でイギリス植民地からの独立に貢献し「建国の父」と讃えられているアウン・サン将軍らに軍事教練などを施し、イギリス植民地だった同国に送り込み、イギリスを退ける事に協力し合っていたものの日本の敗色が濃厚になると、アウン・サン将軍は連合軍側に寝返りそれまで従っていた日本を追撃する側に転じた。
だが、日本の敗戦後に最後まで日本を裏切らずに日本へ亡命した仲間のバー・モウ(初代イギリス植民地政府ビルマ首相、日本の傀儡であるビルマ国の大統領および内閣総理大臣)宛てに、「反日はビルマを生き残らせるための唯一の手段である」「日本を責めない」といった手紙を送っている(この件に関しては国際派日本人養成講座No.733 ビルマ独立の志士と日本人(下)によるとASEANセンター編『アジアに生きる大東亜戦争』、展転社、S63に記載がある)。
また、ビルマ独立のために奮闘した日本の特務機関である『南機関』の機関長であった鈴木敬司(偽名:南益世)予備役少将がBC級戦犯として連行され裁判にかけられそうになった時も、「ビルマ独立の恩人を裁判にかけるとは何事か!」と猛反対したとされ、結局彼は釈放された。
こういったエピソードもあり他国と状況が異なり日本に批判的な教育は行われず(おそらく行うといろいろ政権の黒い面も明らかとなることもあろうかと思う)、客観的な評価をしている点も反日ではない要因と言われる。
また、ビルマの軍歌には『軍艦行進曲』の旋律を流用したものがあり、ミャンマー軍部の親日的傾向を示す根拠として提示される事があるが、一般歌謡にも日本の旋律を流用した物が見られるため、独自の作曲家等の不足による可能性も否めない。
2007年9月には日本人の映像ジャーナリストである長井健司が取材中にミャンマー軍によって殺害された事件もあった。