誘導
- 競走馬
- 1をモチーフとしたウマ娘プリティーダービーに登場するウマ娘。→サイレンススズカ(ウマ娘)
こちらでは1に関して解説する。2に関してはタグを含めてリンク先(2の物)を使用する事を推奨。
98年 宝塚記念
最速の機能美、サイレンススズカ。
速さは自由か、孤独か。
誕生
サイレンススズカは1994年5月1日、稲原牧場にて生を受けた。
母はアメリカでスプリンターとして活躍し、引退後に来日したワキア。
父は言わずと知れた大種牡馬サンデーサイレンス、母の父がミスワキという血統であった。
牧場でのあだ名は、母親の名前からとって「ワキちゃん」だったという。
トレセンに入厩してからは、併せ馬で準オープンクラスの古馬に先着するなど新馬らしからぬ好時計を出し、関係者の間では早くもその素質が期待されていた。
デビュー~4歳時代(現表記で3歳)
1997年2月1日の新馬戦でデビュー。
2着のパルスビートに7馬身の大差をつけ圧勝し、格の違いを見せつけた。
このレースで5着だったプレミアートに騎乗していた武豊は、後に「痛い馬を逃した」と話した。
その後皐月賞への出走権をかけ、2戦目にして皐月賞トライアルのGⅡ弥生賞へ出走。
しかし、ここでサイレンススズカは後々まで語られる珍事を引き起こす。
出走前のゲートイン中に鞍上の上村洋行騎手を振り落とし、そのままゲートをくぐってコースに出てしまったのである。
狭い馬房の中でグルグル回れる程の柔軟性が、妙な所で発揮されたものである。
このアクシデントの罰として、サイレンススズカは大外枠からの出走となった。
その上、10馬身近くの出遅れをしてしまったのである。
しかしながらサイレンススズカはこの絶望的な出遅れをものともせず激走し、なんと直線に入るころには3番手辺りまで進出していた。
結局直線で失速し8着と掲示板にすら載れなかったものの、観客に大きなインパクトを残したレースであった。
その後、500万下条件戦をこれまた7馬身差で圧勝。
日本ダービートライアルのプリンシパルステークスも勝利し、意気揚々と日本ダービーへ。
しかし、このダービーでは同じ逃げ馬のサニーブライアンが2冠を達成したのを尻目に9着と完敗。
鞍上の上村が「先手を取ってもサニーブライアンは退かない。それでは共倒れになると思った」と後に語った通り、このレースでサイレンススズカは後ろに控える競馬をしていた。
常に抑えるレースを行ったためかレース中は終始折り合いを欠いており、それが敗因となったと言われている。
秋初戦の神戸新聞杯(GⅡ)でも、追い込んできたマチカネフクキタルに敗れ2着であった。
ちなみにこの神戸新聞杯では、鞍上の上村洋行がゴール前の直線で勝ちを確信し、追うのをやめてしまったというとんでもない騎乗ミスをやらかしている。
勝てるレースを自らの手で潰したという事で、それまで主戦騎手を務めていた上村はサイレンススズカから降ろされてしまった。
その後天皇賞(秋)に参戦し、1000m58秒5というハイペースで逃げるも6着に敗れる。
次にマイルチャンピオンシップに出走するも、スタート後は桜花賞馬キョウエイマーチに競り負けて1000m56秒という殺人的ペースの逃げの中で2番手追走。
結局最後の直線で失速し、タイキシャトルの15着という大敗を喫した。
そして12月、GⅡ香港国際カップ(現GⅠ香港カップ)にて、後の相棒となる武豊騎手が初騎乗。
結果は5着だったが、翌年以降サイレンススズカは怒涛の快進撃を見せるのであった。
5歳時代(現表記4歳)
年が明け、古馬となったサイレンススズカは、オープン特別競走のバレンタインステークスに出走。
2着に4馬身差をつけての圧勝であり、それ以降、サイレンススズカは連勝街道を驀進。
GⅡ中山記念で重賞初制覇後、GⅢ小倉大賞典も立て続けに勝利した。
金鯱賞~11馬身の大逃げ
サイレンススズカの陣営が次に選んだレースは、GⅡ金鯱賞であった。
宝塚記念を見据えた競争となるこのレースには、重賞2勝を含め5連勝中のミッドナイトベット、昨年の菊花賞を制したマチカネフクキタル、4連勝でGⅡアルゼンチン共和国杯を制したタイキエルドラドなど、そうそうたる顔ぶれが集まった。
そんなメンバー相手に、サイレンススズカはスタートから勢いに任せ大逃げを敢行。
真っ先に第4コーナーを回り、重賞にもかかわらず「大差」(この時は約11馬身の差がついていた)での勝利となった。
あまりの逃げっぷりに、サイレンススズカが第4コーナーを回ったところで既に拍手が湧き起る程であった。
今なお、この金鯱賞をサイレンススズカのベストレースに押すものも多い。
サイレンススズカの特徴でもある、二の脚を使った「逃げて差す」レーススタイルもこの頃定着した。
宝塚記念~初のGⅠタイトルへ
その後のサイレンススズカは、目標レースの天皇賞(秋)に向けて、疲労回復のために放牧に出される予定だった。
が、ファンの期待に応えるため、体調も良好と判断した陣営は、「春のグランプリ」である宝塚記念への出走を決断。
主戦騎手の武豊が先約のあったエアグルーヴに騎乗するため、騎手は一時的に南井克己に乗り替わった。
ファン投票6位だったが、有馬記念馬のシルクジャスティスや、混合GⅠで牡馬相手にも遜色ない走りを見せた「女帝」エアグルーヴらを抑え堂々の一番人気。
レースではステイゴールドにあと一歩の所まで迫られたものの、鞭を入れられるとすかさず加速。
見事1着でゴールインし、念願のGⅠタイトルを手に入れた。
毎日王冠~影をも踏ませぬスピード
陣営が秋初戦として選んだのは、天皇賞(秋)へのステップレース、GⅡ毎日王冠だった。
この毎日王冠には、NHKマイルカップの優勝馬であり、後にサンクルー大賞典優勝や凱旋門賞2着など海外で活躍したエルコンドルパサーと、朝日杯3歳ステークス(現朝日杯フューチュリティステークス)を準オープンの古馬戦以上のタイムで制するなど圧倒的な強さを見せていた3歳王者グラスワンダーの2頭も出走。
両馬ともにこれまで無敗であり、このレースは「3強対決」として話題を呼んだ。
レース当日の東京競馬場には、この3頭の戦いを一目見ようと13万人もの大観衆が詰めかけた。
ファンファーレからスタート、最後の直線に至るまで、府中の歓声はGⅠのそれと比べても遜色ない程の盛り上がりであった。
レースはいつも通りサイレンススズカが逃げに逃げ、1000m57.7秒というハイペースで逃げ続けた。
そしてサイレンススズカは直線で二の脚を使い、そのままゴールイン。2着のエルコンドルパサーに2馬身半の差をつけ、重賞5連勝という快挙を成し遂げた。
フジテレビ競馬実況の青嶋達也(通称アオシマバクシンオー)は「グランプリホースの貫録!!どこまで言っても逃げてやる!!」と叫んでいた。
また、この時エルコンドルパサーに騎乗していた蛯名正義騎手には「影さえ踏めなかった」と言わしめた。
この事から、サイレンススズカは「影さえ踏ませぬ快速馬」と言われる事がある。
こうして、快進撃を続けていたサイレンススズカは、予定通り目標だった天皇賞(秋)へ出走する。
そして、それが彼の生涯最後のレースとなってしまった。
天皇賞(秋)~突然の悲劇
1998年11月1日、遂に第118回天皇賞(秋)の発走時刻となった。
サイレンススズカは、逃げ馬にとって有利と言われる1枠1番、さらにレース日も11月1日、単勝オッズ1.2倍の1番人気。
まさに1尽くしの日であった。
また、このレースの後には国際GⅠジャパンカップへの挑戦、さらにはアメリカへの遠征計画も発表されていた。
しかし、この頃の天皇賞(秋)にはあるジンクスがあった。
それは「1番人気の馬が勝つことができない」というもの。
実際、1987年に1番人気のニッポーテイオーが勝ってから、このレースが行われるまでの11年間、1番人気の馬が勝つ事は無かったのだ。(厳密には1991年の天皇賞(秋)は1番人気のメジロマックイーンが1着入線を果たしたものの、進路妨害により18着へと降着されている。)
そして、レースがスタート。レースはいつも通り、サイレンススズカが凄まじい大逃げをうった。
カメラをいっぱいにひかないと出走馬全頭が映らないほどの大逃げであり、誰もがサイレンススズカの逃げ切りを信じて疑わなかっただろう。
サイレンススズカは、逃げ続けたまま第3コーナーへ向かった。
しかし、大ケヤキの向こうから、再び姿を現したサイレンススズカは様子が違っていた。
第4コーナー手前で、サイレンススズカは突然失速。2番手のサイレントハンターにかわされ、後続馬に次々と抜かされていく中で、サイレンススズカは競走を中止。
「ああっと、サイレンススズカ!サイレンススズカに故障発生です!何という事だ!4コーナーを迎える事無くレースを終えた武豊!沈黙の日曜日!」(フジテレビ塩原恒夫の実況より)
彼が競走を中止した時、スタンドからは、目の前で起きた信じがたい出来事に対する悲鳴が上がっていた。
レースは柴田善臣騎乗のオフサイドトラップが1着だったが、その結末を見届けた者が果たしてどれだけいただろうか・・・。もっとも柴田自身、勝ったオフサイドトラップの屈腱炎を乗り越えた8歳馬という老雄の勝利を称える一方、サイレンススズカの状態については「これが競馬」と沈痛な表情を浮かべざるを得なかった。
観衆は、サイレンススズカの無事を祈るしか無かった。しかしながら、サイレンススズカに下された診断結果は
「左前脚手根骨粉砕骨折発症・予後不良」
という、悲しい最期であった。
こうして、サイレンススズカはその一生を終え、府中のターフに散った。
GⅠ勝ちは宝塚記念の一度のみ、4歳時の戦績からも、「悲劇で美化されているに過ぎない」という意見はある。
しかし、サイレンススズカは、確かに人々の記憶に残る存在であった。
5歳になってからは天皇賞まで無敗を誇り、GⅠを含む重賞5連勝という戦績を残した。そしてその美しくも激しい大逃げは、到底並の馬に真似できるものではない。
「影をも踏ませぬ快速馬」サイレンススズカ。
彼の一生は、いつまでも競馬ファンの心に残るものとなるだろう。
余談
- 彼の母であるワキアには、元々トニービンが付けられる予定であった。しかし、ワキアが発情した時にはトニービンの予定が空いてなかったため、急遽サンデーサイレンスを種付けしたという経緯がある。
- 上記の天皇賞(秋)のジンクスは、結局最悪の形で続く事となってしまった。しかし、このレースより2年後、テイエムオペラオーによってこのジンクスは破られる事となる。
- 実は、彼の故障の原因は未だにはっきりしていない。この時のサイレンススズカは、関係者が口を揃えて「生涯最高の出来」と言うほどの仕上がりであった。このため、騎乗していた武豊からは「原因はわからないんじゃない、無い」というコメントがなされた。現在では、「サイレンススズカ自身のあまりのスピードに、骨が耐えられずに粉砕骨折を引き起こした」という説まで飛び出している。
- サイレンススズカの死後、晩年の主戦騎手であった武豊の落胆は相当なもので、全レース終了後の同日夜、号泣しながらワインをあおって泥酔する姿が見られていたという(後年、武は「あの日の晩は俺も死んでた」「泥酔したのはあの時が初めてだった」と語る。)。同レースでテイエムオオアラシに騎乗し武とも親交深い福永祐一も、「あんなに落ち込んだ豊さんを今まで見た事がなかった」と振り返っている。
- 武豊はデビュー当時からサイレンススズカのポテンシャルを高く評価し、「理想的なサラブレッド」と評している。また「今まで乗った馬でディープインパクトと勝負するなら、どの馬を選びますか」と問われた際、武はサイレンススズカを選んでいる。
- サイレンススズカが死亡した翌年の宝塚記念では、実況の杉本清が「今年もまたあなたの、私の夢が走ります。 あなたの夢はスペシャルウィークかグラスワンダーか? 私の夢はサイレンススズカです。夢叶わぬとはいえ、もう一度この舞台でダービー馬やグランプリホースと走ってほしかった。」と語った(通常はそのとき出走する馬の中から一頭本命馬が挙げられる)。
- サイレンススズカの最期を「沈黙の日曜日」と呼んだ塩原アナの実況は、「日曜日の沈黙」を意味する父・サンデーサイレンスの名前に引っ掛けたもの。サンデーサイレンスは四年後に亡くなっており、早すぎた死であった。(祖父のヘイローやミスワキよりも早く、孫に先立たれる祖父という点ではマルゼンスキーと共通している。マルゼンスキーの場合はライスシャワーでスズカと同じ結末であった)
- サイレンススズカが産まれた1994年5月1日は、F1界伝説のドライバーアイルトン・セナが事故死した日でもある。セナもサイレンススズカと同様、予選1位(ポールポジション)からトップを維持したまま勝利するという先行逃げ切りの戦法を得意としていた。また、サイレンススズカの「スズカ」は三重県の鈴鹿山脈が由来(馬主が三重県出身)で、鈴鹿と言えばF1日本GPが開催される鈴鹿サーキットが有名である。共に他を圧倒するスピードでファンを魅了するも悲劇的な最期を遂げたことからサイレンススズカはセナの生まれ変わりではないかという都市伝説がある。
競走戦績
S=ステークス
レース名 | グレード | 施行距離 | 着順 | 騎手 | 1着馬(2着馬) |
---|---|---|---|---|---|
4歳新馬 | 新馬 | 京都芝1600m | 1着 | 上村洋行 | (パルスビート) |
弥生賞 | GⅡ | 中山芝2000m | 8着 | 上村洋行 | ランニングゲイル |
4歳500万下 | 500万下 | 阪神芝2000m | 1着 | 上村洋行 | (ロングミゲル) |
プリンシパルS | OP | 東京芝2200m | 1着 | 上村洋行 | (マチカネフクキタル) |
日本ダービー | GⅠ | 東京芝2400m | 9着 | 上村洋行 | サニーブライアン |
神戸新聞杯 | GⅡ | 阪神芝2000m | 2着 | 上村洋行 | マチカネフクキタル |
天皇賞(秋) | GⅠ | 東京芝2000m | 6着 | 河内洋 | エアグルーヴ |
マイルチャンピオンシップ | GⅠ | 京都芝1600m | 15着 | 河内洋 | タイキシャトル |
香港国際カップ | GⅡ | シャティン芝1800m | 5着 | 武豊 | バルズプリンス |
バレンタインステークス | OP | 東京芝1800m | 1着 | 武豊 | (ホーセズネック) |
中山記念 | GⅡ | 中山芝1800m | 1着 | 武豊 | (ローゼンカバリー) |
小倉大賞典(中京での代替開催) | GⅢ | 中京芝1800m | 1着 | 武豊 | (ツルマルガイセン) |
金鯱賞 | GⅡ | 中京芝2000m | 1着 | 武豊 | (ミッドナイトベット) |
宝塚記念 | GⅠ | 阪神芝2200m | 1着 | 南井克己 | (ステイゴールド) |
毎日王冠 | GⅡ | 東京芝1800m | 1着 | 武豊 | (エルコンドルパサー) |
天皇賞(秋) | GⅠ | 東京芝2000m | 中止 | 武豊 | オフサイドトラップ |
関連タグ
ライスシャワー、ホクトベガ:いずれもレース中の故障により若くして死亡した1990年代を代表する名馬。一部の競馬ファンが競馬を引退してしまうほどの1990年代競馬三大トラウマとして語り継がれている(もっとも同様の悲劇が発生するのは決して珍しいことではなく、1996年にもワンダーパヒュームが故障し亡くなっている)。