概要
文化12年10月29日(1815年11月29日)、彦根藩第13代藩主・井伊直中の十四男として生まれる。
戦国時代の徳川四天王の一人、井伊直政の子孫。
井伊家は譜代大名の中でも大きな領地を持つ家系で、格式が高すぎて老中にはなれなかったが、折にふれて大老を出している名門だった。
しかし十四男では井伊家の跡も継げず、養子に出る先も一応はあったのだが流れ、父の死後は30歳過ぎまで学問・武術・芸能に力を注いでいた。
兄・井伊直亮の死後、彦根藩の第15代藩主となり、後に幕末期の江戸幕府にて大老を務めた。
将軍継嗣問題
第13代将軍・徳川家定の後継を巡り、一橋慶喜を推す一橋派と紀州藩主・徳川慶福(徳川家茂)を推す南紀派が激しく対立。この時期、徳川家定に嫁いだのが島津斉彬の養女・篤姫である。
その最中、阿部正弘、島津斉彬が死去したことで、家定から慶喜が嫌われていたこともあり、南紀派が主導権を握り井伊直弼が大老に就任。家定の死後、徳川家茂が第14代将軍となる。
一橋派 | 老中首座・阿部正弘(備後福山藩主)、前水戸藩主・徳川斉昭(一橋派筆頭、慶喜の父)、越前藩主・松平春嶽、尾張藩主・徳川慶勝、薩摩藩主・島津斉彬、宇和島藩主・伊達宗城、土佐藩主・山内容堂ほか |
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南紀派 | 第13代将軍・徳川家定、彦根藩主・井伊直弼(南紀派筆頭)、鯖江藩主・間部詮勝(老中)などの譜代大名、大奥ほか |
これを見るとおり、一橋派の大半が将軍家からは「よそ者」である親藩や外様であり、家としての相続について発言力が弱かったといえる。
ちなみに、家定や慶福の叔父で徳川家斉の息子の中では唯一生存していた40歳前半の松平斉民がいたが、そちらを推す目立った動きはなかった。
欧米諸国との条約締結
開国か攘夷かで揺れる日本に対し、アメリカ合衆国総領事ハリスの圧力と幕府内の開国派に押される形で、外国との交渉に全面反対していた孝明天皇の勅許がないまま日米修好通商条約に調印した。
安政の五ヶ国条約と呼ばれ、アメリカ・イギリス・フランス・ロシア・オランダの5カ国と締結。関税自主権がなく、外国人への裁判権を認めていたことから、不平等条約と言われる。
直弼としては「外交は幕府が認められた権限だから」として、どうせ賛成してくれない孝明天皇の賛同を求めなかったのだろうが、天皇の許可無く開国したことで朝廷と幕府の関係は悪化。一橋派からも批判を受ける。
ちなみにこの途中、南紀派の後押しと家定の推薦により、直弼は大老に就任した。
安政の大獄
吉田松陰など過激活動家の粛清を行うが、処罰を受けた者の半数以上は一橋派の者であることから、事実上の一橋派の弾圧だった。
一橋派の大名・公卿・彼らの家臣達・志士(活動家)にまでおよび、連座した者は100人以上にのぼった。
その頃の一橋派
巻き返しを図ろうとする一橋派は京都で運動を行い、幕府の無断調印に激怒した孝明天皇が水戸藩に対して、勅書(戊午の密勅)を下賜する事件が起こる。幕府を通さず臣下である藩への直接降下されるという前例のないことだった。
水戸藩(斉昭)が外様大名や浪士と結託し、朝廷を利用して幕府を転覆させようとしているとの疑いを強め、水戸藩に対して勅書を幕府に返納するよう命じる。一方で、勅書降下や慶喜の将軍擁立運動の関係者の処罰を始めた。
水戸藩
一橋派・徳川斉昭が処罰を受けて以降、藩内では、「天狗党」とよばれる尊王攘夷派(斉昭の改革を支持してきた派)と、「諸生党」とよばれる保守派(改革反対派)との対立が激しくなっていく。桜田門外の変は尊王攘夷派の浪士たちによって引き起こされた。
薩摩藩
一橋派・島津斉彬は井伊に反発し、藩兵5000人を率いて上洛することを計画したが、同年7月に鹿児島で急死。
水戸藩と共同して大老井伊直弼暗殺を計画したが、藩主と藩主の父・島津久光が書状を届けて集団脱藩を思い止まらせた。誠忠組結成に至る。
土佐藩
一橋派・山内容堂が隠居させられ、謹慎を命じられると、藩内で幕府に対する反感と山内容堂の名誉回復に対する機運が高まり、武市瑞山らによって土佐勤王党結成に至る。
独裁政治に対する反発から攘夷派などの怨みを買い、安政7年3月3日(1860年3月24日)、雪の降りしきる江戸城下、江戸城に程近い彦根藩邸(現在の国会議事堂周辺)より登城する途中、桜田門外において水戸脱藩浪士17名と、薩摩藩士1名による彦根藩の行列を襲撃、暗殺された。
行列の武士は襲撃に対して無警戒であったうえに、雪という悪天候のため雨合羽と傘に袋をかけていたためとっさの反撃もままならず、浪士一同に斬られるという有様だった。
直弼は居合剣術を体得した武の達人でもあったが、浪士に拳銃で撃たれて弾丸が腰の神経を傷付けて、まともに動けないところで駕籠ごと刺され、最期は駕籠より引きずり出されて首を刎ねられるという呆気なく、悲劇的な最期だったという。
さすがに「大老が白昼堂々殺害された」とは発表できずに、井伊家と幕府は「殺害されたのは体格の似た別人で、大老は襲撃時の負傷により療養中(後、単なる病気療養中に変更)」として死を隠し、その後直弼の死亡を発表している。
このため、井伊家の江戸の菩提寺である世田谷・豪徳寺の直弼の墓の命日は『万延元年三月二十八日没』となっている。
その後
攘夷運動、倒幕運動が加熱。京では『天誅』という暗殺事件が多発。天誅の対象者は安政の大獄で弾圧に関わった人物が多かった。
こうした流れの変化により、一橋派は復帰。一橋慶喜が将軍後見職に、松平春嶽が政事総裁職に就任する。
悪化した朝廷と幕府の関係改善(公武合体)の象徴として、家茂の正室に孝明天皇の妹・和宮と家茂の婚姻が認められるが、攘夷の実行と引き換えという条件つきとなる。
一方、井伊家(彦根藩)は息子の井伊直憲が跡を継いだ。しかし父・直弼の業績に対する反動もあって領地を一部没収された上、長州戦争でも旧式の部隊が全然役に立たないなど、政治上すっかり干されてしまうことになる。この彦根藩の弱体化が、会津藩の松平容保を京都の政界に引き込んだ(そして結果として破滅させた)要因の一つとなる。
幕府への反発が強まった彦根藩では、長州戦争後に討幕派の勢力が強くなり、戊辰戦争では初めから明治新政府側につき、旧幕府側が東から京都を攻撃するのを防ぐ側に回り、その後も積極的に新政府軍の側で戦っている。明治維新後、井伊直憲は伯爵に叙されている。
余談ではあるが、戦後1953年から1989年まで井伊家の所領であった彦根市の市長に就任し、『殿様市長』と称された井伊直愛は直弼のひ孫にあたる。
人物
- 彦根藩時代は藩政改革を行ない、名君と呼ばれた。
- 17歳から32歳までの部屋住みの時代、多数の趣味に没頭したが、中でも茶の湯では「宗観」の名を持ち、一派を確立するほどだった。さまざまな茶書を研究し、茶人として大成。弟子となった家臣たちと茶会を開いていた。著書「茶湯一会集」巻頭で「一期一会」という言葉にして世の中に広めた。
- 部屋住み時代、兄に冷遇されたことで性格が歪んだとも言われる。
登場作品
井伊直弼を題材にした人物、またはモチーフにしたキャラクターが登場する作品。
映画
『桜田門外ノ変』(2010年、演:伊武雅刀)
ドラマ
『花の生涯 彦根篇 江戸篇』(1953年、松竹映画、演:八代目松本幸四郎)
『花の生涯』(1963年、NHK大河ドラマ、演:二代目尾上松緑)
『徳川慶喜』(1998年、NHK大河ドラマ、演:杉良太郎)
『篤姫』(2008年、NHK大河ドラマ、演:中村梅雀)
『柘榴坂の仇討』(2014年、松竹映画、演:二代目中村吉右衛門)
『花燃ゆ』(2015年、NHK大河ドラマ、演:高橋英樹)
『西郷どん』(2018年、NHK大河ドラマ、演:佐野史郎)
『青天を衝け』(2021年、NHK大河ドラマ、演:岸谷五朗)
漫画
『風雲児たち』: 井伊が登場したころは丁度作者がかの傑作アニメにはまってた時で、首が切られることもあり作品では「(巴)マミる」などのネタが展開する。なお同作者には井伊の部屋住み隠棲時代を扱った短編『チャカポンくん』(チャカポンとは当時の直弼が趣味とした「茶道(チャ)」「和歌俳諧(カ)」「雅楽の鼓打ち(ポン)」のこと)がある。
『江戸むらさき特急』:大河ドラマ「花の生涯」を題材としたパロディで、直弼はじめ登場人物が花や蜂に扮して登場。アマリリス編やスイートピー編がある。
ミュージカル
『ミュージカル刀剣乱舞』:2022年1月公演「江水散花雪(こうすいさんかのゆき)」に登場。本作では歴史上人物として重要な役割を果たす。