ウイニングチケット
ういにんぐちけっと
曖昧さ回避
- 1990年生まれの競走馬。
- 週刊ヤングマガジンで2006年から2012年まで連載されていた漫画→ウイニング・チケット
- 1をモチーフとしたウマ娘プリティーダービーに登場するウマ娘。→ウイニングチケット(ウマ娘)
競走馬「ウイニングチケット」
ビワハヤヒデ(B)、ナリタタイシン(N)と共に1993年のクラシックを盛り上げ、BNWと称された。
主な勝ち鞍は東京優駿(1993年)。主戦のベテラン・柴田政人騎手にとっても初のダービー勝利であった。
生年月日 | 1990年3月21日 |
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英字表記 | Winning Ticket |
性別 | 牡 |
毛色 | 黒鹿毛 |
父 | トニービン |
母 | パワフルレディ |
母の父 | マルゼンスキー |
5代内のインブリード | Hyperion4×5/Nasrullah5×5 |
競走成績 | 14戦6勝 |
近親 | ロイヤルタッチ(半弟) |
馬主は太田美實。栗東伊藤雄二厩舎。
※馬齢は数え表記
1990年
3月21日、藤原牧場(新ひだか町)に誕生。生まれて3日目、名伯楽として知られる伊藤雄二調教師(栗東トレーニングセンター)が牧場を訪れ、「この馬でダービーを」と希望を寄せた。
1992年
夏の北海道開催のため伊藤雄二厩舎が構えていた馬房に入る。伊藤は北海道に来ていた柴田政人騎手にウイニングチケットのデビュー戦の騎乗を依頼する。
9月6日、函館競馬場芝1200mの新馬戦でデビュー。7番人気で5着。
9月13日、連闘で臨んだ芝1700mの新馬戦で勝ち上がる。その後はソエが出たため暮れまで休養。
12月6日、復帰初戦の葉牡丹賞で1着。
12月27日、ホープフルステークスで1着。
朝日杯3歳ステークス(現・朝日杯フューチュリティステークス)を制しJRA賞最優秀3歳牡馬を受賞したエルウェーウィンは外国産馬でクラシックレースの出走権が無く、ウイニングチケットは朝日杯2着のビワハヤヒデ、ラジオたんぱ杯3歳ステークスを制したナリタタイシンなどとともに翌年のクラシック戦線の有力馬と目される。
1993年
3月7日、皐月賞トライアルの弥生賞から始動。1番人気に推され、レースではナリタタイシンより外を回ったにもかかわらず2馬身差をつけて完勝。
4月18日、皐月賞では単勝2.0倍の1番人気。若葉ステークスを制して臨んだビワハヤヒデは3.5倍の2番人気、ナリタタイシンは9.2倍と離れた3番人気だった。レースでは日本ダービーを見据えて中団から抜け出したが、後方一気のナリタタイシンの瞬発力に屈し0.4秒差の4着。ビワハヤヒデはナリタタイシンとはクビ差の2着。ここで世代の3強という評価が固まり、“新・平成3強”“BWN(93年秋以降の序列)”という見出しが付けられるようになる。
5月30日、東京優駿に出走。柴田政人騎手の悲願のダービー制覇を期待してウイニングチケットが1番人気、柴田と同期でシンボリルドルフ以来のダービー制覇に挑む岡部幸雄騎乗のビワハヤヒデが2番人気、僅差の3番人気に皐月賞馬ナリタタイシン(鞍上は当時24歳の武豊)と役者が揃った。レースは直線入り口で敢えて馬場の荒れた内側を通ったウイニングチケットがビワハヤヒデ、ナリタタイシンの追撃を退け、皇太子殿下御成婚奉祝競走・第60回東京優駿を制した。「日本ダービーを勝ったら騎手を辞めてもいい」と豪語していた柴田政人騎手は19回目の挑戦にして悲願のダービージョッキーの称号を手にし、観客が彼を大「マサト」コールで祝福した。
10月17日、京都新聞杯に出走。前残りの展開を瞬発力でひっくり返し1番人気に応えて優勝。
11月7日、菊花賞に出走。調整過程と前哨戦の内容からビワハヤヒデが1番人気、ウイニングチケットは2番人気、ナリタタイシンは離れた3番人気。レースはビワハヤヒデが2着のステージチャンプに5馬身差をつける圧勝。ウイニングチケットは3着。
11月28日、菊花賞から中2週でジャパンカップに出走。同年のダービー馬の出走はシンボリルドルフ以来。日本馬では最上位の4番人気で3着。
12月26日、有馬記念ではファン投票上位で選出され3番人気に推されるが11着に終わる。JRA賞の記者投票ではビワハヤヒデが最優秀4歳牡馬、年度代表馬に選出される。
1994年
7月10日、春全休から高松宮杯で復帰。柴田政人は落馬負傷で甥の柴田善臣に乗り替わり1番人気だったが、ナイスネイチャの5着。秋まで休養に入る。
9月18日、武豊に乗り替わり、天皇賞(秋)を見据えてオールカマーに出走。同じくレース間隔を空けたいビワハヤヒデもオールカマーに出走。前年のダービー馬と、天皇賞馬と宝塚記念馬が対戦する9月のGⅢとしては異例の豪華レースとなった。人気が2強に集中し、レースはロイスアンドロイスが食い下がって3着に入ったが、ビワハヤヒデがウイニングチケットに1馬身3/4先着。馬券は極めて堅い決着となった。
10月30日、第110回天皇賞に出走。ビワハヤヒデが単勝1.5倍の1番人気、ウイニングチケットは単勝5.0倍の2番人気。ネーハイシーザー、サクラチトセオー、マイシンザンと同世代のクラシックレースを戦ってきた面々で上位人気を占めた。レースは直線でネーハイシーザーが抜け出すが、ビワハヤヒデとウイニングチケットは伸びず馬群に沈む。2頭はレース中に屈腱炎を発症し、共に引退に追い込まれた。
ビワハヤヒデはJRA賞最優秀5歳以上牡馬を受賞。年度代表馬はナリタブライアン。
1995年
静内スタリオンステーションで種牡馬となったが成績は芳しくなく、ビワハヤヒデとナリタタイシン同様、種牡馬として名を成すことはできなかった。
それでもBNWの中で唯一重賞勝ち馬を出し、2021年にはひ孫のレイパパレが大阪杯を勝ったため、GⅠ馬の血統表に名を残すことに成功した。
2003年
種牡馬シンジケートが解散した。
2004年
静内スタリオンステーションが閉鎖され、アロースタッドに移動。
2005年
秋に種牡馬を引退。
2007年
うらかわ優駿ビレッジAERU(浦河町)に功労馬として繋養される。ニッポーテイオーやダイユウサク、ヒシマサルとともに放牧され、ヒシマサルとは特に仲が良かった。しかし、他の3頭には先立たれ、その後は1頭だけで放牧されている。
2018年
スペシャルウィークが死亡したことで1990年代として、そして2023年にアグネスフライトが死亡したことで20世紀のダービー馬で最後の生き残りとなった。
2023年
2月18日、疝痛の為死亡。享年33歳。これにより存命GI馬の最高齢の座はフラワーパーク、ダービー馬はタニノギムレットに譲られ、20世紀のダービー馬は全頭天へと旅立った。