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中ソ対立の編集履歴

2023-11-10 00:01:28 バージョン

中ソ対立

ちゅうそたいりつ

中華人民共和国とソビエト連邦の対立

概要

中ソ対立(ちゅうそたいりつ、ロシア語:Советско–китайский раскол、中国語:中苏交恶、英語:Sino-Soviet split)は、1956年2月から続いていた中国ソ連の対立状態の事である。最初は政党の間で理論・路線をめぐって対立していたが、次第にイデオロギー・軍事・政治に至るまで広がり、1989年5月にゴルバチョフが中国を訪問した事でこの対立は終結した。


歴史

対立の始まり

1947年3月にアメリカソ連が対立する東西冷戦が発生し、1950年2月に中国とソ連は友好同盟相互援助条約を締結したが、1979年4月に中国が条約を延長しない意志を一方的に通告して1980年4月に失効した。1956年2月にフルシチョフスターリンの独裁政治・権威主義・個人崇拝を否定するスターリン批判を展開し、西側陣営との平和共存を提唱した。


継続する対立

1962年10月に中印国境紛争が開戦し、中国人民解放軍はインド軍を圧倒して優位に戦争を進めたものの、インドに侵攻するのは避けて撤退した。同月にキューバ危機が発生すると、中国はソ連がアメリカの帝国主義に屈服したとして厳しく非難した。1963年6月に中国共産党ソ連共産党に対して国際共産主義運動の総路線についての提案を発表し、全面的な中ソ論争に突入した。


1969年3月に国境沿いに位置するダマンスキー島(珍宝島)を巡って中ソ国境紛争が発生し、同じ陣営同士での核戦争が発生する恐れもあった。ベトナム戦争でアメリカが南ベトナムの支援に参戦すると、中国とソ連は北ベトナムを支援したが、結局協力せずに支援合戦の状態になった。


中国はソ連を牽制するべく西側陣営の盟主であるアメリカに接近し、1971年10月に国際連合総会決議で中華民国安保理常任理事国を交代した。1979年1月にアメリカと中国は外交関係を樹立したが、この2か国が接近した事で北ベトナムは中国に不信感を持った。それによって北ベトナムの外交はソ連に対して友好的になり、1975年4月に北ベトナムの勝利で統一が果たされた。


1978年1月にベトナムカンボジア恐怖政治を実施するポル・ポト政権を攻撃し、1979年1月に独裁政権を終結させたが、この戦争は親中派のポル・ポトと親ソ連派のベトナムが交戦する東側陣営同士の代理戦争の様相を呈した。同年2月に中国がベトナムに侵攻する中越戦争が発生し、ベトナムはこれを返り討ちにした後、中国と共に勝利宣言を発して戦争を終結させた。


対立の鎮静化

1978年12月に鄧小平が改革開放路線を進め、1987年1月にゴルバチョフはペレストロイカを実施した。この両者の時代になって外交関係の改善が進み、1989年5月にゴルバチョフが中国を訪問した事で外交関係が回復された。同年6月に中国では天安門事件が発生し、ゴルバチョフの訪問で民主化運動はより活発になり、1991年12月にソ連が崩壊して対立に終止符が打たれた。


その後の中露関係

1991年8月にクーデターが失敗に終わって同年12月にソ連は崩壊し、同月に後継国のロシア連邦が成立して冷戦は終結した。エリツィン政権での不況となってアメリカに対する敵対感情が強まり、プーチン政権で資源の開発や軍拡などで超大国に返り咲こうとした。ブッシュ政権のアメリカとアフガニスタン紛争イラク戦争で対立し、他にもウクライナに対して圧力を強めた。


中国は市場経済を導入しながら未だにの一党独裁を継続し、1997年7月に香港が返還されるのを前後して経済発展が進んで国内に格差が拡大した一方で、軍拡によって極東東南アジアに対して覇権の拡大を進めた。2001年7月に中露善隣友好協力条約が締結されると、この条約は先述の中ソ友好同盟相互援助条約に取って代わり、両国関係を発展させる基礎となった。


中国・ロシアの動きにオバマ政権のアメリカはアジア・ヨーロッパ方面で権勢するが、ISの活動・リーマンショック(2008年9月)・アラブの春(2010年12月)に乗じ、胡錦濤習近平政権の中国は更に海洋進出を拡大させた。ロシアはシリア内戦にISを打倒するべくアサド政権側に与して参戦し、中東で台頭するイランと中国・ロシアは両国関係を強化してアメリカを牽制している。


アメリカ・ヨーロッパ

2020年2月にドイツのミュンヘンでミュンヘン安全保障会議が開催されたが、この会議ではアメリカとヨーロッパの国際関係が更に険悪化した事が最も浮き彫りになっており、産経新聞も「アメリカの国務・国防両長官が中国・ロシアの脅威についての対応でヨーロッパに結束を求めたが、イギリスフランス・ドイツは応じず、米欧同盟の亀裂が露わになった。」と報じたほどであった。


ロシア・ウクライナ戦争

2022年2月にロシア・ウクライナ戦争が発生し、この戦争で疲弊するロシアは経済・技術・外交でこれまで以上に中国に頼らざるを得ない状況になり、現在のロシアはあらゆる面で中国に縋る側となっている。しかしロシアは依然として世界最大の核保有国であり、主要な食糧・エネルギー生産国である事から、現状としては中国の属国と呼ぶ事はまだ出来ない。アメリカが主導する世界秩序に対抗する中国にとって、ロシアは今でも戦略的に必要な存在と言える。


対立の影響

ここにある国でも殆どがソ連と友好関係にある国だった。


アルバニア

数少ない中国と友好関係にあった国で、1971年10月に国際連合総会決議で中華民国を追放させた国である。1976年9月に毛沢東が死去した後は、中国との外交関係が悪化して孤立する。


北朝鮮

中国・ソ連の国際関係・内情を見て双方共に等距離の友好関係を築き、思想の方針に至っては金日成が提唱した独自路線である「主体思想」を中心とした。


ルーマニア

中国・ソ連と友好関係を築きながら、西側諸国に接近して支援金を引き出した。


アフガニスタン

親ソ連派のアフガニスタン民主共和国(アフガニスタン人民民主党政権)に対し、親中派のアフガニスタン共産党・アフガニスタン解放機構がムジャヒディンと共にゲリラ戦を実行した。


エチオピア

親ソ連派のエチオピア人民民主共和国(エチオピア労働者党政権)をメレス・ゼナウィ率いるアルバニア派から、親中派のティグレ・マルクス・レーニン主義連盟を中核としたエチオピア人民革命民主戦線がゲリラ戦によって打倒し、現在の政府であるエチオピア連邦民主共和国を成立させた。その後敗北した労働者党の残党は南スーダンを拠点に統一愛国者戦線を結成し、武力による政府転覆を掲げてエチオピア連邦民主共和国政府に対するゲリラ戦を実行している。


日本

日本共産党が自主独立路線を掲げてソ連・中国双方と対立していた為、双方から破壊工作を受けたと同時に親ソ連派・親中派の新左翼党派が結成され、彼らの手による共産党員・民主青年同盟員に対する襲撃事件が多発した。一方で日本社会党では派閥が認められていた為、親ソ連派・親中派が混在しており、双方とも概ね友好関係を維持した。


関連タグ

冷戦 中華人民共和国 ソビエト連邦

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