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山崎の戦いの編集履歴

2012-10-16 20:54:49 バージョン

山崎の戦い

やまざきのたたかい

 織田信長に下克上を果たした明智光秀と、その情報をいち早く掴んで中国地方から大返しを果たした羽柴秀吉が正面衝突した戦い。

山崎の戦いとは本能寺の変で主君である織田信長、並びに織田家の家督を相続していた織田信長嫡男、織田信忠を一挙に討ち果たした織田家宿老、明智光秀と、その頃には毛利家と講和交渉中であった羽柴秀吉が武力衝突した戦の名称である。山崎合戦とも。


本能寺の変から山崎の戦い直前まで

 天正十年(西暦1582年)六月二日、京都本能寺妙覚寺を強襲して織田信長、並びに嫡男である織田信忠を討つという見事な下克上手腕を発揮した明智光秀であったが、第一の警戒目標である四国遠征軍(大将、神戸信孝、軍監、丹羽長秀)が目前で自滅し瓦解したのを確認した後、京都の治安維持を務め、対上杉戦を有利に進めていた為、次に交戦が予想される北陸方面軍団の柴田勝家の南下に備え兵を近江方面に動員しながら周辺諸侯に連携の通知を放っていた所、手早く毛利輝元との講和交渉を纏め疾風の如く兵を返してきた羽柴秀吉が天正十年六月十一日、尼崎に到達する。


 此処で一旦、周囲の状況を確認するが、まず嫡男である細川忠興を通じて明智光秀と縁戚関係であった丹後一国拝領の細川藤孝本能寺の変成功の知らせを受けて「上様(織田信長)、並びに殿様(織田信忠)の喪に服す」と中立的な態度を表明し、同じく明智光秀と縁戚であった大和筒井順慶も慎重な態度に終始している点から、従って本能寺の変は周辺と連携が取れた計画ではなく明智光秀単独の突発的な行動であった事を偲ばせる感触を残している。美濃では佐久間信盛と共に改易された西美濃三人衆の一人である安藤守就本能寺の変の報せを聞き連れ失地回復を図り明智光秀への旗幟を鮮明にして挙兵したが、元々が織田信忠の領地であった美濃は地盤が固く稲葉良通稲葉一鉄)らが迅速にこれらを鎮圧。上野に加増転封されたばかりの滝川一益は国人衆が把握できない状態で後北条氏と神流川の戦いを交戦中で、毛利氏と講和交渉を進める羽柴秀吉は眼前に毛利輝元らの後詰め兵四万名が構えている所を、織田信長明智光秀の後詰めが背後にあるという情勢で均衡を保っていた状態で、現実問題として御館の乱で国力を大量に疲弊させた上杉景勝との戦に従軍している柴田勝家以外、誰一人として即座に明智光秀に兵を向ける事は難しかった。

 従って近江京極高次といった自領、坂本近郊の諸侯こそ味方に付けられたものの、明智光秀羽柴秀吉中国大返しという離れ業で完全に背後を突かれる形となり、羽柴秀吉の後詰めに駆けつける為の直卒、一万三千名前後で秀吉を迎え撃つ事になったのである。

 しかし秀吉にとっても中国大返しという行軍は安易なものではなく、先ず第一に単純兵力では明智光秀と互角でしかない上に、強行軍を敷いた上で背後に毛利輝元を置く以上、戦が長期化すると毛利家が明智光秀と共謀し挟撃に遭う恐れがある為、何が何でも短期決戦に持ち込まなければならないという点であった。従って自動的に第二の課題となったのは自身の管轄外である山城国京都)への行軍途上にある摂津国の国人衆招聘であるが、秀吉は摂津衆である有力家臣、中川清秀高山右近らに「上様(信長)、殿様(信忠)は無事である」という虚報を流布させ、摂津国諸大名を味方に付ける事に成功する。更に大半の軍勢こそ瓦解したものの、それでも尚、僅かながらの残存兵を引き連れた丹羽長秀神戸信孝の両将とも合流し、兵数は二万を越える軍勢となる。

 さて六月七日には姫路城を通過し十二日、富田大阪府高槻市)にて秀吉軍は軍議を開き、武田征伐の時と同じく名目上の総大将としては神戸信孝を着任させ、実質上の指揮官として秀吉が就任する事に決定する。光秀も十日には秀吉の東進を察知し各付城を普請しているが、十二日昼頃、前著の通り光秀近江国に兵を固めた状態でとても十分とは云えない備えにて、両軍は円明寺川を挟み対峙する。


山崎の戦い

 秀吉側は前もっての軍議にて山崎(摂津山城の国境)が合戦場となると予想しており、早い段階で各要衝を占拠する。後に名高い天王山もその一つであるが、実際には天王山に陣取った高山右近中川清秀の両隊は、対する斎藤利三伊勢貞興に押され気味の戦局となり、堀秀政の後詰めによって辛うじて五分に持ち込んでいる。天王山は実際の所、五分の戦局で膠着するのである。

 戦況が大きく動いたのはその僅か後、淀川沿いに布陣していた池田恒興池田元助加藤光泰の軍勢が密かに円明寺川を渡河し、津田信春の軍勢を強襲した所からである。津田信春隊は猛攻に持ち堪える事が出来ず壊乱し、その綻びを渡河した三軍に呼応する形で丹羽長秀神戸信孝が突き上げ光秀本隊の左翼に迫る勢いを見せる。

 この突き上げを受けて戦端を切った天王山高山右近中川清秀の両隊が盛り返し、やがて光秀軍は全戦線にて堪えきれず総崩れとなった。明智光秀は敗走し勝竜寺城に籠もるも勝竜寺城は平城で兵収納力も低く、籠城に向く城ではなかった事から勝竜寺城を破棄、本拠地である近江国坂本の坂本城を目指すが途上、落ち武者狩りにあって絶命したとも、或いは坂本まで逃れた末に自刃したとも伝えられる。明智光秀、天正十三年六月没、享年六四。


山崎の戦い終戦後

 山崎の戦いで雌雄こそ決したものの秀吉軍の損害も軽微で済んだ訳では決してなく、壊乱した軍はどれだけ損害を計上しても追撃するのが鉄則である中で光秀軍主力である斎藤利三隊を壊滅させ、殿隊であった伊勢貞興の首級を上げた段階で秀吉は追撃を終了。明智光秀の首を取れないまま勝竜寺城に入り軍の再編を終了させる。

 翌日十四日、明智光秀の本拠地である近江坂本に進軍、光秀の後詰めに出た明智秀満は先発隊の堀秀政に破れて後、坂本城に撤退して家宝を攻め方に進呈して一族衆と共に自刃、丹波亀山城明智光慶も自刃に至り、残兵も討ち取られ或いは降伏。秀吉は十七日までに粗方の平定を終え、此処に明智光秀の天下は終了した。

 尚、この本能寺の変に当たっては北近江の守護職である京極高次明智光秀に味方しており降伏、人質として後に有名な松の丸殿京極竜子、或いは京極マリア)が秀吉の側室に入っている。が、自ら奮起した本能寺の変よりも秀吉の側室となった松の丸殿と自らの正室となった浅井三姉妹が一人、の計らいの方が自身を出世させたというのは誠に残酷な話である。


戦後、論功行賞に於ける織田家の遺領配分、「清洲会議」

 明智光秀を山崎の地で討ち主君の敵を討つと、家督を相続していた織田信忠迄もが自刃した事より、早急に織田家の後継者と遺領の配分を決定する為の合議が清洲城にて開催される。是を後に清洲会議と呼ぶが、参加者は対北条戦中であった滝川一益を除き、摂津国を任されていた池田恒興、山崎の戦いでは秀吉の麾下で参戦した丹羽長秀、対上杉戦の指揮を不破光治前田利家佐々成政府中三人衆に託して帰陣した柴田勝家の四名で行われた。

 元々、織田家は信長が「長子を後継者とする(大概は何処の家も長子相続ではあった)」と定めており、そのままの順列で行けば北畠信雄が織田家後継者となる筈であったが、北畠信雄は生母が織田信忠と同じという理由だけで次男と定められたとすらされる器量に不足した人物であった事もあり(一説に寄らば三男の庶子、神戸信孝の方が生まれは早いともされている)、第一次紀州征伐時には紀州制圧軍を救援しろと云う信長の命令に対して自己の判断で伊賀国を無断にて攻めしかも大敗するなど、軍歴も芳しくない事から柴田勝家は無理を承知で織田家三男、神戸信孝を後継者に推す。

 この時点での織田家の順列は京都御馬揃えの席次をそのまま記載するに、以下の通りになる。


  1. 中将信忠卿(織田信忠
  2. 北畠中将信雄(織田信雄
  3. 織田上野守信兼(織田信包
  4. 三七信孝(織田信孝
  5. 七兵衛信澄(津田信澄
  6. 源五(織田長益
  7. 又十郎(織田長利
  8. 勘七郎(織田信弌
  9. 中根(織田信照
  10. 竹千代(織田信氏


 斯様な形で実際の所、神戸信孝を織田家の後継者として担ぎ出すにはやや無理があったのだが、是また上記の通り山崎の戦いにて神戸信孝がそれなりの武功を挙げていた為、話が少々、ややこしくなった。

 これに対して羽柴秀吉織田信忠の長子である三法師丸(後の織田秀信)を後継者として推薦し、同時に天正十年の時点ではまだ若干、三歳であった事から三法師丸の後継人は北畠信雄が務め、政務は他、織田家家臣団で合議によって決定するという案を提出する(尚、織田秀信の母は不明。そもそも織田信忠の正室が誰なのかすら現状では判っていない)。この提案に対し池田恒興丹羽長秀両名が賛成の意を表明した為、織田家の後継者は晴れて三法師丸に決定するのだが、是またややこしい事に、この決定に対して織田信孝が異を唱え、織田家の首領が居する安土城に三法師丸を移す決定に対して人質とばかり、三法師丸の身柄を自らの居城である岐阜城へと留め置く事態が発生する。この行動が後に賤ヶ岳の戦いへと収斂していくのである。

 尚、それ以降の事象に文章を割く前に清洲会議による織田家家臣団の所領安堵結果を此処に記載する。


氏名織田家としての立場安堵された領土
織田信雄信長次男尾張一国
織田信孝信長三男美濃一国
織田信包信長実弟?伊賀一国と北伊勢
羽柴秀勝信長四男(秀吉の養子)丹波一国
柴田勝家家臣団宿老越前一国と長浜城、並びに北近江三郡加増
丹羽長秀家臣団若狭一国と近江二郡(滋賀郡、高島郡)加増
池田恒興家臣団摂津国二郡加増(尼崎郡、大阪郡)
細川藤孝旧明智縁戚丹後一国(本領安堵)
筒井順慶旧明智縁戚大和一国(本領安堵)
高山右近家臣団摂津衆本領安堵
中川清秀家臣団摂津衆本領安堵
堀秀政信長近習筆頭近江国佐和山
羽柴秀吉家臣団旧領に加えて山城国、一国加増。近江所領を勝家に割譲
三法師丸(織田信秀織田家首領近江国坂田郡(代官に堀秀政

 本能寺の変岐阜へと落ち延びた織田長益が蚊帳の外なのは注目点の一つであろうか。織田信忠が父である織田信長を救う為に現場で奮闘した上、自害したにも拘わらず自身は早々に現場から逃げ果せた事から、「織田の源五は人ではないよ お腹召させておいて われは安土へ逃げる源五 六月二日に大水出て 織田の源なる名を流す」等と当時は市井でかなり冷やかされた模様ではある。が、結果としては徳川大名として生き抜いた事からその逃避行に対しては毀誉褒貶があろうものと存ずる。


成句

二大勢力が争っているときに、有利な方へ味方しようと日和見することを「洞ヶ峠(ほらがとうげ)」という。ものごとの勝敗を決める正念場や運命の分かれ目のことを「天王山(てんのうざん)」という(「天下分け目の天王山」と呼ばれる場合も多いが、正しい使い方でない)。権力を極めて短い期間のみ握ることを「三日天下(みっかてんが/みっかでんか)」という。これらはいずれもこの山崎の戦いに由来する成句である。ただし必ずしも史実に即したものではなく、むしろその伝説に由来している。

「洞ヶ峠」

信長から大和一国に封じられていた筒井順慶は、光秀が率いる畿内方面軍の中では光秀に次ぐ勢力があり、また単に光秀の与力大名としてではなく、光秀とは個人的にも極めて親しい間柄にあった。本能寺の変後、光秀から味方につくように誘われると、順慶は去就に迷う。伝承では、順慶は光秀に乞われて洞ヶ峠まで出陣しながら、光秀方に加勢することを逡巡、合戦が始まっても形勢を窺うばかりで兵を動かさなかったということになっている。確かに順慶は光秀の求めに応じて少人数の配下を山城国に派遣していたが、実際には密かに秀吉方に寝返ることを決めており、居城で籠城の準備に取り掛かっていた。そうとは知らない光秀は、煮え切らない順慶に加勢の催促をしようと会談を申し入れ、次男を連れて洞ヶ峠まで赴いたが、約束の日時になっても順慶は現れなかった。光秀はすっぽかされたのである。


「天王山」

山崎の戦いは、秀吉方の中川清秀の隊が高山右近の隊の横に陣取ろうと、天王山の山裾に移動してきたことが合戦の緒端となった。この両隊に光秀方の軍勢が襲いかかり、一時は崩壊寸前まで追いつめられたが、秀吉方の援軍の到着で辛くも窮地を脱し、それでも一進一退の後に、最終的には光秀方を押し返すことに成功した。これがいつしか「秀吉方が天王山を占拠して光秀方を牽制したことが戦いの帰趨を決めた」と言われるようになり、そこからこの合戦は「天王山の戦い」と呼ばれるまでになった。しかし実際には、天王山の争奪は戦局に大きな影響を与えておらず、そもそも天王山の争奪戦そのものがあったかどうかも定かでない。『中川家記』や『太閤記』などがこの逸話を創作した、あるいは風聞を写し書きしたとする史家も多く、そのため今日ではこの合戦を「山崎の戦い」と呼ぶことが大勢となっている。


「三日天下」

肥後細川家に伝わる『明智光秀公家譜覚書』には、本能寺の変後光秀が細川藤孝・忠興父子に味方になることを説得した書状が所収されており、その中で光秀は変の後参内し、従三位・中将に叙任された上で征夷大将軍の宣下を受けたと書かれている。この史料の信憑性には疑問の余地があるものの、変後の政局が光秀を中心として展開したことは間違いない。では光秀の「天下」が実際にはどのくらいだったのかというと、本能寺の変が天正10年6月2日、山崎の戦いが同月13日、差し引き11日ないし12日間の「天下」だった。

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