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カトリーヌ・ド・メディシス

かとりーぬどめでぃしす

メディチ家からフランスのヴァロワ朝王家に嫁ぎ、アンリ2世の王妃となる。カトリックの立場からプロテスタントを弾圧、1572年のサンバルテルミの虐殺の黒幕とされる。
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概要編集

カトリーヌ=ド=メディシス(1519〜1589)Catherine de Médicis、イタリア名カテリーナ=デ=メディチ。

フィレンツェの富豪で政治権力を握るメディチ家の、ウルビーノ公の方のロレンツォ・デ・メディチと、フランス王フランソワ1世の従妹マドレーヌとの間で生まれた。つまりイタリア人であるがフランス人の血もひいていた。


誕生直後に両親を失い、枢機卿ジュリオ=デ=メディチ(後の教皇クレメンス7世)の保護下にフィレンツェで育ち、イタリア戦争渦中の1529~30年のフィレンツェ包囲戦では共和国側の人質として尼僧院に幽閉された。共和派が敗れて救出され、11歳のカトリーヌはローマに移り、教皇クレメンス7世の宮廷で華やかな生活を送った。

カトリーヌは、背が高く頑丈な身体の持ち主で、美貌ではないが、頭の回転が速い快活で精力的、知的好奇心も旺盛で古典や芸術の教養もあった。


政略結婚編集

クレメンス7世は、フィレンツェのメディチ家政権を安定させるため、ハプスブルクのカール5世とフランスのヴァロア朝の国王フランソワ1世の双方との婚姻を考えた。カール5世の娘マルガレーテと自分の子のアレッサンドロ(フィレンツェ公)とを結婚させる一方、カトリーヌをフランソワ1世の王子のアンリに嫁がせようとした。

フランスのフランソワ1世も、カール5世と対抗上、メディチ家と結ぶことを有利と考えた。14歳になっていたカトリーヌは従兄の枢機卿イッポリトと恋愛関係にあったが、クレメンス7世は強引に彼女をフィレンツェに戻し、アンリとの結婚に同意させた。1533年10月、クレメンス7世とフランソワ1世の交渉がまとまり、カトリーヌは10万エキュの持参金つきでフランスの王子オルレアン公アンリ(のちのアンリ2世)と結婚した。


カトリーヌは「フィレンツェの商人の娘」と陰口をささやかれながら、義父フランソワ1世をはじめとするフランスの宮廷人に受け入れられ、「とりわけ、周囲の人たちを楽しくする彼女の快活な気質が、人びとの心を魅了」し、音楽や狩猟乗馬を楽しみ、イタリアの料理法で食卓を豊かにした。しかし夫アンリは20歳年上の愛人に入り浸り、結婚生活は不幸であった。

それでも25歳から次々と7人の子どもをもうけ、この間、1547年に夫は王位についてアンリ2世となると、王妃としての立場を揺るぎないものにした。


フランス支配編集

1559年、イタリア戦争を終結させたカトー=カンブレジ条約が締結された年、アンリ2世は馬上槍試合に出場して事故死してしまう。

後を継いだ長男のフランソワ2世も1年後に夭折、1560年12月4日、次男シャルルがわずか10歳で即位しシャルル9世になると、カトリーヌは王母として摂政となり、以後約30年にわたり、フランスを統治することとなる。


フランスは、キリスト教の新旧両派に分かれ対立が激しく、動乱の時期であった。カトリーヌは、権力を握るとメディチ家一流の権謀術数を揮い、場合によっては毒殺呪術を使い、スパイを宮廷に張り巡らして隠然たる勢力を築いていった。彼女の父ウルビーノ公ロレンツォはマキャヴェリが『君主論』を献呈した人物であり、カトリーヌもそれを読んでいたに違いない。このころのカトリーヌは「マダム・セルパン(蛇太后)」とあだ名されるようになっていた。


ユグノー戦争編集

1562年、ヴァシーでカトリック(旧教徒)側の中心にあったギーズ公一派がプロテスタント(新教徒)を虐殺、それをきっかけに宗教対立は全面的な内乱となり、30年の間に8回の戦闘が行われるユグノー戦争となった。カトリーヌは宗教的には熱心なカトリック教徒ではなかったが、政治的にはカトリック派の諸侯と近かったため、新教徒をしばしば弾圧した。


サン・バルテルミの虐殺編集

最も有名なものが1572年のサンバルテルミの虐殺である。これは、カトリーヌが新旧両派の融和を図ると称して娘のマルグリット(マルゴ)を新教派の中心人物ナヴァール王アンリ=ド=ブルボン(後のアンリ4世)に嫁がせ、その結婚式に参集したユグノー派新教徒3000人が旧教徒によって殺害された事件であった。

カトリーヌが虐殺を指示した証拠はないが、この虐殺をきっかけに全国的なユグノー派弾圧が波及し、2万もの人が殺害されるという事態となってしまった。カルヴァン派はもともと王権を否定するものではなかったが、これをきっかけに、ヴァロワ朝王政に対する非難が強まっていった。


ヴァロワ朝の滅亡編集

1574年にシャルル9世が死去、三男アンリ3世が即位するとカトリーヌは形の上では摂政の地位を退いたが、なおも王母として隠然たる権力を維持した。

新旧両派の争いは収まらず、旧教勢力の国王アンリ3世とギーズ公アンリ、新教派のナヴァール王アンリの「三アンリの戦い」が繰り広げられた。

フランス宗教戦争が終息する前の1589年1月、カトリーヌはブロワ城で69歳の生涯を閉じた。その年の9月、アンリ3世も暗殺され、後継者がないまま、ヴァロワ朝は断絶した。

代わってブルボン家のアンリ4世が即位しブルボン朝となった。しかし旧教徒側は新教徒アンリの即位を認めず、アンリはパリに入城できないまま、争いは続く。


フランス文化に与えた影響編集

カトリーヌが輿入れの際に連れてきた料理人、調香師などはフランス文化へ多大な影響を与え、のちのフランス料理ココ・シャネルなどに繋がっていくことになる。


こういう陽の一面があるため、彼女を一概に悪女と呼ぶことについては賛否両論がある。


創作では編集

アサシンクリード2編集

フィレンツェが舞台で、メディチ家が関わる本作。コラムにてフランスに食事マナーをもたらした旨が記される。


大航海時代編集

公式まんが『ウミロク かいせんどんっ!(作:ルーツ@JT_roots)』ではヒセラ・アルマラスに毒見をさせるブラックな面が描かれた。


シヴィライゼーション6編集

カトリーヌの「特別遊撃隊」という固有スキル持ち。遭遇した各文明に対して通常よりも1レベル高い外交的視野を得る。「城」技術を獲得すると無償でスパイ1人を獲得 (最大数も増加)。無償のレベルアップにより、すべてのスパイが諜報員としてスタートする。




関連タグ編集

メディチ家 悪女 宗教戦争



表記揺れ編集

カトリーヌ カトリーヌ・ド・メディチ


参考編集

  • 世界史の窓
  • ウィキペディア

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