プロフィール
概要
少年時代は地元・長崎の海に潜り、手製の銛で魚を突いて獲るなど優れた運動神経を生かし、学生時代はスキー、野球、馬術など、スポーツの才能を開花させ、将来はパイロットかプロ野球選手になることを夢見ていたが、父親が東映で殺陣師をしていた縁で明智十三郎に呼ばれて上京。演技を学ぶ。本人は監督志望だったために「監督直下の書生になればすぐに監督になれる」と考え、映画監督の丸根賛太郎の書生となるも、丸根本人から役者をやってみたらどうかと勧められ、『快傑修羅王』でデビュー。
当初はフリーランスで活動していたが久世竜の門下となったことで東宝七曜会に入会。その後、三船プロダクションが発足するとそのまま同プロに移行し、久世七曜会のメンバーとなる。ちなみに薩摩剣八郎は三船プロダクションの後輩にあたる。
1967年に製作者側の殺陣を重視したヒーローにしたいという要望もあって、『ウルトラセブン』にて主人公ウルトラセブンのスーツアクターとなり、きくち英一が担当した『セブン』14話、15話以外のウルトラセブンとセブン上司を演じた。
『セブン』終了後は円谷エンタープライズに1年間所属し、1971年にピープロ製作の『スペクトルマン(宇宙猿人ゴリ)』にてスペクトルマンと宇宙猿人ゴリの部下ラーを兼任。ラーに至ってはのちに声も担当した。
1973年の映画『狼の紋章』で松田優作に殺陣を教えてからは兄貴分として慕われるようになり、松田の晩年の出演作『ブラック・レイン』のころまで交流が続いていたという。なお、松田の主演ドラマ『探偵物語』に「スペクトルマン」が登場するエピソードが存在するが、上西はこれには一切関与していなかったとのこと。
71年からはプロデューサーに転向し、映画やCMのプロデュースに従事する一方、80年代始めに、『気功拳士シャークマン』という実写ヒーロー作品を企画し、『仮面ライダースーパー1』の後番組として毎日放送に売り込んだこともあったが実現には至らなかった。
その後は長い間消息は不明だったが、2015年の時点ですでに亡くなっているという。没年不詳。
エピソード
ウルトラセブンのスーツアクターになる際、当初は顔が出ないことを理由に「ジャリ番で顔かくしてお面被って殺陣やれだと?とんでもない!」と乗り気ではなく、一週間ぐらい粘られ「この番組で売り出してやる」と説得の末、本人も勉強のつもりで引き受けた。
馬鹿にしつつも本人なりに初代ウルトラマンの戦闘スタイルの研究を重ねつつ、エレキングに飛びつきざま着地時には首絞めに入るなどの機敏なアクションやアイスラッガーが邪魔で後転しづらいと言いながら、「座頭市」を観てアイスラッガー逆手斬りとか様々なアイデアを出し実践し、セブン独自の戦闘スタイルを確立していった。
とはいえ顔を隠すことには抵抗があり、サイン会では必ずマスクを外してサインをしていた。
ある時、ウルトラセブンの姿で身体障碍児施設に慰問に行った際、バスから降りたときに一人の少年が自分の元へ駆け寄ってきた。のちにその少年がそれまで歩くことはおろか、立つことさえ出来なかったと聞いて強い衝撃を受け、ヒーローの影響力の大きさに気付き、それ以来「ジャリ番」呼ばわりしたことを反省しスーツアクターという仕事への偏見がなくなったという逸話が存在する。
初代ウルトラマンのスーツアクターである古谷敏とは東宝スタジオに出入りしていた関係で面識があったとされる。