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概要編集

清和源氏の一族・摂津源氏源頼政の孫・顕綱を祖と称する。以仁王の乱で一族が討たれた後、三河国額田郡大河内郷(愛知県岡崎市)へ落ちのびたのが家名の由来としている。

承久の乱後、三河守護となった足利氏に仕え、後に足利氏の分家である吉良氏に仕えた。戦国時代の当主・秀綱吉良義昭に仕え、徳川家康の三河統一戦に抵抗したが敗北、以降は徳川家に仕え幕末まで715石の旗本として続いた。

大河内松平家編集

1587(天正15)年、秀綱の次男・正綱長沢松平家庶流の松平正次の養子となったのが始まり。1617(元和3年)に相模玉縄(神奈川県鎌倉市)2万石を与えられ大名となり、正綱の孫・正久の時に上総大多喜(千葉県大多喜町)へ転封となった。11代当主・正質は老中格に就任したが、戊辰戦争の初戦である鳥羽・伏見の戦いに幕府軍の大将の一人として従軍した責任を問われ、一時官位剥奪・領土没収の処分を受ける(後に回復)。

また秀綱の長男・正綱の長男・信綱が正綱の養子となり、3代将軍・家光小姓となって別家を興した。1628(寛永5)年に加増で1万石を与えられて大名となり、その後も老中に就任すると武蔵川越(埼玉県川越市)6万石まで加増された。その後3回の転封を経て三河吉田(愛知県豊橋市)7万石へ移封され幕末まで続いた。

さらに信綱の五男・信興が4代将軍・家綱の小姓となって別家を興し、1679(延宝7)年に1万2千石を与えられて大名となった。その後3回の転封を経て上野高崎(群馬県高崎市)8万2千石へ移され幕末まで続いた。

3家とも明治維新とともに姓を大河内に戻し、華族令公布とともに子爵に叙爵された。

外部リンク編集

大河内氏 - Wikipedia

関連タグ編集

武家 摂津源氏

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