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宇土古城

うとふるしろ

宇土古城は肥後国の中央部に存在した平山城である。この項目では別後に築城された宇土城に関しても記述を行う。
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御城プロジェクトにおいて擬人化されたものは宇土城を参照せよ。

概要

 この城は平安時代に築城されたとされ、(古代の豪族の流れをくむ紀氏の流れをくむ)宇土氏、(肥後国守護であった菊池氏の流れをくむ)宇土氏、 (伯耆国の悪党であったが南朝に仕えそののち肥後国に移り栄えた名和氏の流れをくむ)宇土氏という風にわたり、最後は豊臣秀吉により討伐されこの城の歴史は終わった。
 なお、その後別後に建築された宇土城に関してもこの項目で扱う。

宇土古城

 この城の歴史は古く、平安時代にまでさかのぼる(11世紀ごろ、当時の関白藤原道隆がこの地に来た時に西岡台と呼ばれる地に作られたといわれるが、歴史が合わない)。紀氏の流れをくむ宇土氏が建築していたと思われ、鎌倉時代までは勢力を誇っていたものと思われる。しかしながら鎌倉時代末期には衰退し、菊池氏の流れをくむ宇土氏にとってかわられたと思われる。
 この城が歴史上に登場するのは南北朝時代のことであり、この城主は特に南朝につき活躍したとされる。
 また室町時代には城主は肥後国守護にまで上り詰めるものの、菊池氏本家の襲撃に会いこの城に籠城するも失敗、逃亡するも捕まりあっさり滅亡し、この城は菊池氏の部下である城氏のものとなるものの、あっさり城を捨てて本国に戻った。
 その後空城となっていた本城には菊池宇土氏の娘婿であった名和顕忠が城を手に入れる。なおその後6代続き、豊臣秀吉の九州征伐の際降伏し領土を安堵されたものの、弟を城代にして城を離れたところ弟が豊臣秀吉に反抗したため、城は攻略され、廃墟と化した(なお6代目は生き残っており子孫は名和を名乗り明治時代男爵となっている)。

発掘調査

 この城跡は残存したものが何もなかったが、発掘調査が行われ、連郭式の体をなしていたことが明らかになり、掘立柱建築の痕跡やの遺構が発掘されている。また、土木作業工程や技術を示す貴重な事例となる「掘削作業途中の横堀跡」も見つかっている。

宇土城

 この城は戦国時代から江戸時代初期にかけて存在した城である。

歴史

 この城は先の宇土古城が攻略され、その領土を手に入れた小西行長により天正17年建造開始。
 慶長5年、関ヶ原の戦いおよびそれに伴う各地での戦いにおいて、小西行長は西軍に加担し関ヶ原に出陣したため、東軍についた加藤清正により侵略されることとなる。籠城により対抗し、攻め落とされはしなかったものの、関ヶ原の戦いの結果行長が切腹となったため開城した。この戦の結果城下は焼かれた。
 加藤清正のものとなったのち、以前から所有していた熊本城を本城とし、この城を隠居後の居城としようとして主曲輪などを修復していたとされるが、彼の死後城は他の城とともに破却された(なお一国一城令の前であるものの、以前より城の整理が行われていたのか何らかの圧力があったのかは不明)。
 加藤氏の改易後、細川氏がこの地を治めることになった。その後島原の乱など反乱側による廃城跡を用いた立てこもりが発生したため、徹底的に城址は破壊された。
 またその後宇土藩が成立するものの、が作られることはなかった(陣屋どまりであった)。

構造等

 3重の天守を持ち、この城はおそらくは城郭本体だけでなく城、武家屋敷および城下町水堀運河によって一体的に結合される形式で計画されたものであると伝承やのちの発掘の結果から推測されているが、その後の徹底的な破壊および放置によりこの城の遺構は少なく(石垣などは残っている)、わからないことは多い。
 熊本城のやぐらの一つはこの城の天守閣を移築したものであるといわれていたが、解体修理の結果移築の形跡は見られず、新たに建築したものであると推測される。

pixivにおいて

 pixivタグとしてはほぼ御城プロジェクト城娘イラストである。このキャラクターに関しては宇土城に詳細が記述されている。

関連項目

歴史

参照

wikipedia宇土城およびリンク先

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