経歴
プロ入り前
名門PL学園の主将を務めるが、3年次(1998年)の夏の甲子園では松坂大輔擁する横浜高校と準々決勝でぶつかり、延長17回の死闘の末に7-9で敗れた。
ちなみにPLの同期には、日本テレビアナウンサーの上重聡がいた。
その後は同志社大学、トヨタ自動車野球部を経て、2004年のドラフト会議で東北楽天ゴールデンイーグルスから7位指名を受け入団。
なお、楽天はこの年が最初のドラフトであるため、平石は楽天1期生のひとりとなった。背番号は33。
現役時代
初出場は開幕2戦目、2005年3月27日のロッテ戦。しかしこの試合は0-26という歴史的な惨敗で、平石も3打数無安打と散々なデビュー戦だった。
その後は若い選手や外国人の台頭で徐々に出番が減り、2011年に戦力外通告を受け31歳で現役引退。プロ通算37安打。なお、平石の引退によって、楽天ドラフト1期生はわずか7年で全員がいなくなった。
現役引退後、楽天コーチ・監督として
引退後の2012年からコーチとして在籍。2015年には35歳の若さで二軍監督に就任。
2018年には一軍ヘッドコーチに就任するが、同年6月16日をもって梨田昌孝が成績不振の責任を取って一軍監督を辞任したため監督代行として指揮を執り、シーズン終了後一軍監督へ昇格。これにより、楽天初の生え抜き監督、および1980年代生まれ初の一軍監督となった。
チームは前年の最下位から3位へ躍進させる実績を残すも、シーズン途中より選手陣の不調で成績が伸び悩んで長らくBクラスに転落しており、打線陣の乱調や走塁ミスなどの例年からの課題点を改善できなかった点や采配や継投での誤算が目立っていた。
一軍監督としての契約は単年契約であったことや、あくまでも現場に携わることにこだわる平石の姿勢と、かねてより「中長期的に優勝を狙えるチーム作り」という目標を立てていた石井一久らフロント側の考えとの折り合いがつかなくなったことも重なり、クライマックスシリーズで対戦相手・ソフトバンクに逆王手をかけられて1勝2敗で2019年シーズンが終了したことに伴い退任(後任は三木肇)。
二軍での育成と実績を讃える球団側から用意されていた「二軍総括ポスト」という地位に就く案も固辞して球団から正式に離脱。采配ミスに関して一部のファンからこそ批判はあったものの、2年ぶりのAクラス入りに貢献した実績から楽天以外のチームファンから高く評価されていたため、わずか1年で平石時代が終わってしまったことを多くのファンから惜しまれた。
楽天退団後
福岡ソフトバンクホークスからの招聘を受けて、翌年から同チームの一軍打撃コーチ兼野手総合コーチに就任。一軍監督経験者が別チームのコーチに就任するパターンは、2009年にオリックス一軍監督を経てソフトバンク一軍ヘッドコーチに就任した大石大二郎以来となる。2021年は一軍打撃コーチに専念した。
2021年シーズン終了後、工藤公康がソフトバンク一軍監督を退任。三軍監督に異動することを球団から打診されたが、一軍での指導にこだわり退団。埼玉西武ライオンズから一軍打撃コーチとして招聘された。
背番号
背番号 | 使用年 | 所属チーム | 備考 |
---|---|---|---|
33 | 2005年〜2012年 | 東北楽天ゴールデンイーグルス | 選手 |
89 | 2012年 | 東北楽天ゴールデンイーグルス | 育成コーチ(野手担当) |
89 | 2012年 | 東北楽天ゴールデンイーグルス | 2軍外野守備走塁コーチ |
89 | 2013年 | 東北楽天ゴールデンイーグルス | 1軍打撃コーチ補佐 |
89 | 2014年 | 東北楽天ゴールデンイーグルス | 1軍打撃コーチ |
89 | 2014年〜2015年 | 東北楽天ゴールデンイーグルス | 1軍打撃兼走塁コーチ |
89 | 2016年〜2017年 | 東北楽天ゴールデンイーグルス | 2軍監督 |
89 | 2018年 | 東北楽天ゴールデンイーグルス | 1軍ヘッド兼打撃コーチ |
89 | 2019年 | 東北楽天ゴールデンイーグルス | 1軍監督 |
78 | 2020年 | 福岡ソフトバンクホークス | 1軍打撃兼野手総合コーチ |
78 | 2021年 | 福岡ソフトバンクホークス | 1軍打撃コーチ |
83 | 2022年 | 埼玉西武ライオンズ | 1軍打撃コーチ |
83 | 2023年 | 埼玉西武ライオンズ | 1軍ヘッドコーチ |
関連タグ
東北楽天ゴールデンイーグルス 福岡ソフトバンクホークス 埼玉西武ライオンズ
楽天ドラフト1期生
※:名前横の西暦は楽天所属年。自由枠を行使したため、3位は指名せず。