檸檬(梶井基次郎)
れもん
えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。
梶井基次郎の短編小説。1925年1月同人誌『青空』にて発表。当時梶井は床に伏せ、これが梶井の生きているうちの唯一の出版本になった
※この作品は著作権が既に切れています。
主人公の「私」は肺尖カタルであり、背を焼くような借金などを抱え込む若者であった。
しかし別の理由で「憂鬱」に陥り、京都の街を放浪中、檸檬を買う。その檸檬の色、重さ、形、手触りによって幸福感を覚えた。その幸福感のまま「私」は以前から避けていた丸善書店に入ってみた。しかし、「私」は再び憂鬱感になり始める。
そこで「私」は画集を積み上げそのまま(そして悪党になった気分で)店を出る。その後頭の中で丸善が檸檬(に見立てた爆弾)で爆発する様子を想像し、活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩っている京極を下って行った。
高校の教科書によく出てくるこの「檸檬」だが、めっちゃ簡単に言うと、病気持ちの「私」が街をさまよいながら「みすぼらしく美しいもの」に強く引かれ、「錯覚」によって現実逃避を試み、檸檬を駆使して、心理的に現実を越えていく内容である。
最初はかなり高難易度、定期テストによく出される。
梶井基次郎の『檸檬』は昔から文学的手法で研究され、様々な仮説・謎がある。しかし、未だはっきりとした結論が出ていない項目も存在する。その1部を下記に抜粋した。
- 「私」は男?女?
- 「不吉な塊」とは。
- 最後のあたりに「変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑えませた。」とあるが何を意味するのか。
- なぜ「京極を下って行った。」=繁華街方面なのか。(地図を見ると他にも行く場所はある。)
『檸檬』の舞台となった「丸善京都支店」は京都市三条通麩屋町に再開設するため閉店し、取り壊すことになった。その最終日には、画集の上に大量の檸檬がおいてあったそう。
丸善は2009年に創業140周年記念として限定万年筆の「檸檬」を販売した。
梶井基次郎の生きていた時代の出来事を列挙する。
- 1919年までの日本であり、第一次世界大戦の特需景気(大戦景気)で繊維・造船・製鉄などの製造業が大いに発展した。
- 戦争に乗じて欧米諸国の市場であったアジアに商品の販路を広げた。
- これらの理由により輸出が大幅に伸びて、日本は米国同様に債務国から債権国に転じた。
- この好景気を背景に東京や大阪などの大都市で百貨店が営業を始め、ラジオ放送や雑誌の創刊が行われた。
- 1920年代に入ると大戦景気の反動による不況(戦後恐慌)をはじめとして、関東大震災での震災恐慌、金融恐慌など経済的な苦境がつづいた。
- 都市の中間層の増大は大正デモクラシーといわれる政治上の主張としてあらわれ、一般大衆の選挙権を求める運動 (普通選挙法)がさかんとなった。
- 本格的な政党政治がおこなわれ、一方では社会主義思想が広まって労働争議や小作争議が相次いだ。
当時の芸術
1920年代半ばから1935年/昭和10年)頃までは、モダニズム文学とプロレタリア文学の併立期で、第一次世界大戦後のヨーロッパに起こったダダイスム・未来派・表現派などの技巧はそのまま日本に輸入され、日本の小説家たちも従来の写実主義や芸術至上主義を唱えているだけではすまされなくなった。そして既成の文壇や個人主義・リアリズムを批判するかたちで、新感覚派がおこった。