概要
- 大日本帝国陸軍にあった兵科(戦闘部隊の事)の内、戦線後方から戦闘地域へ資材、弾薬、食糧品など欠かすことのできない物資を輸送する業務を司る兵科の事。
- 尚、大日本帝国陸軍では昭和15年にこの兵科区分が憲兵以外廃止された。つまり固定的な人材運用を改め、例えばこれまで騎兵科に居た将校が歩兵科の戦車隊に転属する場合、一旦歩兵科に異動する煩雑な手続きが必要であったが、合理化がされたのである。
- ただし「兵種」として引き続き存続しているため「輜重兵第〇連隊」のような呼称は変わっていない。(逆に騎兵は機甲化という時代の流れを受けて少数の騎兵部隊を残し「機甲兵」となり消滅した)
- 国や時代によって呼称が異なり陸上自衛隊においては「輸送科」と「需品科」に相当する。
- 現在では主に大日本帝国陸軍の兵科の事を言うが、翻訳者の采配で他国の軍隊や海外作品でも輜重兵と呼称されるケースもある。
輜重兵と輜重輸卒(輜重特務兵)
- 大日本帝国陸軍が第二次世界大戦で犯したミスの一つに「補給の軽視」が挙げられるが、その文脈で「輜重輸卒が兵隊ならば、蝶(ちょう)やとんぼも鳥のうち」というフレーズが多用されている。
- 輜重輸卒というのは厳密には軍夫、つまり雇われの民間人であるので確かに厳密な意味での兵隊ではないのだが、共に戦地で活動する人員であるならば、わざわざこんな歌を作ってまで差別して良い訳もなく。
そもそも輜重輸卒とは
- 輜重輸卒は物資を運搬する馬を世話をしたり、自身が物資を持って運搬する者の事である。
主に徴兵検査で運動神経が鈍かったり体格の劣る者が宛がわれたため、体の弱い者が重労働で苦労したという話も伝わっている。
- 他にも類似した任務を帯びる「砲兵輸卒」「砲兵助卒」が存在した。
- 武装は銃は与えられず銃剣のみを携行していたと言われており、日中戦争期には戦線後方の部隊が攻撃されるようになったため鹵獲した小銃で武装していたという証言がある。
- 昭和6年に入ると一等卒(一等兵)、二等卒(二等兵)と共に輜重輸卒から「輜重特務兵」に改称され(※「卒」にはかつての「足軽」「同心」を指す意味合いがあり、一等卒・二等卒を『「兵」より劣る者』と解釈する者も居たようだ)昭和12年にはこれまで万年二等兵から進級できるように制度が改められて立場が向上し最終的に輜重兵に統合された。……あれ!?
輜重兵とは
- 輜重兵の兵卒(上等兵、一等兵、二等兵)はこの輜重輸卒を指揮統率していた。
- 騎兵銃を装備し、乗馬する場合には騎兵と同じく長靴(乗馬ブーツ)を履いて軍刀を帯びていたと言われている。
- 乗馬せず駄馬による運搬などで徒歩の場合は歩兵と同じく長靴に代わって巻脚絆と短靴を着用し軍刀に代わって銃剣を帯びていたようだ。
- また輜重輸卒と異なり規定によって徴兵された者は二等兵→一等兵→上等兵と進級していき服役年限に達して除隊するか下士官に志願して引き続き軍に留まる選択をすることになる。
- つまり、輜重輸卒と輜重兵は全く異なる存在である。
- またその任務上、ただ命令を聞いていれば良い歩兵と異なり輜重輸卒に指示を下す立場であるため「輜重兵の上等兵は歩兵の軍曹、輜重兵の下士官は歩兵の少尉」に相当すると形容され、兵卒は下士官並み、下士官は下級将校並みの能力が要求される稀有な兵科であった。
- さらに軍馬からトラックに移り変わってからは当時貴重だった自動車の運転技術が要求されており、そうした意味では専門スキルを要求され続ける兵科だった。
↑輜重兵も装備した九四式六輪自動貨車
- ただ、歩兵騎兵砲兵などの花形に比べると「地味な兵科」という受け取り方をされていたのも間違いなく(特に士官学校を卒業するような若者)将校からは不人気であったようだ。
- さらに当時の軍人らも「輜重輸卒が兵隊ならば~」のイメージが先行して輜重兵と輜重特務兵の違いや統合の件を理解していなかった者も居るため現代人にもより難解にさせてしまっている。
当時の老兵たちが憤慨した「輜重輸卒が兵隊ならば、蝶(ちょう)やとんぼも鳥のうち」
- 昭和12年10月31日付け大阪朝日新聞で「皇軍自らを侮辱するような唄さえ流行し当時の老兵たちを憤慨させたものだが」と報道されており、この囃子は当時の民間人側からなされたように受け取れる内容となっている。
- この当時とは日露戦争の事と思われ、「輜重輸卒として従軍した者が復員後、銃すらも手に取っていないのにあたかも激戦を潜り抜けたかのように吹聴した」事を揶揄するものだった……という説もあり、この説を信頼するならばそもそも陸軍の軍人らが「輜重輸卒」をバカにしていなかった可能性がある。
- また、「津山三十人殺し」の犯人は結核を理由に丙種合格(「身体上極めて欠陥の多い者」で実質的に不合格)になってから周囲から疎まれるようになった事が動機(当時は徴兵検査で甲種合格になることが一つのステータスであった)の一つと言われており、現代人と比べてそうした感性の違いも見逃せないものがある。
- 最後に多数の研究者が指摘している「輜重兵(兵站)の軽視」であるが、本項ではその点については様々な論点があることを考慮して割愛するものの、同記事から「(前略)補給の如何が戦闘の勝敗に一層重大なる関係を持つこととなり(後略)」と発表している点を強調して文末を結びたいと思う。
戦車と輜重兵
- 第一次世界大戦で新兵器戦車が登場し、以後は陸軍の主力兵器に発展していくわけだが、当時の大日本帝国陸軍において自動車は輜重兵が扱っておりMk.IVの輸入にあたっては水谷吉蔵輜重兵中尉(当時)が担当し、搬入された場所も輜重兵第一大隊の駐屯地であった。
- 「自動車」として一括して研究が進められ、その成果は歩兵や騎兵に引き継がれ八九式中戦車や九二式重装甲車といった形で結実する。
このように日本において戦車の歴史は輜重兵から始まったと言えるだろう。
参考文献
「特務兵にも進級 輜重兵上等兵にもなれるぞ 陸軍当局がきょう改正発表 大阪朝日新聞1937.10.31 (昭和12)」
【神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 軍事(国防)(44-008)】より
輜重兵について(荒木肇氏 2016年(平成28年)1月13日配信のメールマガジンバックナンバーより)
https://heitansen.okigunnji.com/category1/entry142.html
関連タグ
戦車……上記を参照
騎兵軍刀……当時の区分では乗馬する場合輜重兵も騎兵と同じ「乗馬・帯刀本分者」というカテゴリーに属していた。(※但し、下士官兵が装備する小銃は騎兵の四四式騎銃に対して三八式騎兵銃で三十二年式軍刀も積極的に戦闘しない為徒歩本分者用でやや短寸の「乙」と装備内容が若干異なっていた)
憲兵……明治38年から大正8年まで「乗馬兵科のみ」補助憲兵になることができた。また輜重兵と同じ三八式騎兵銃と三十二年式軍刀(乙)を装備。
牟田口廉也……兵站を軽視した「インパール作戦」を指揮した事で悪名高い将軍。