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防己尾城

つづらおじょう

防己尾城は、因幡国高草郡に存在した平山城であり、羽柴秀吉による因幡侵攻に伴い落城、廃城となった。
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この鳥取県鳥取市金沢の現在湖山池公園となっている地点に存在したものであるが、pixivタグとしてはブラウザゲーム御城プロジェクトにおいて擬人化されたキャラクターのイラストが多数を占める(というよりほとんどである)ためそちらを先に説明し、城に関してはその後説明する。


御城プロジェクトの城娘の概要

CV:高野麻里佳

 長い黒髪を一本の三つ編みとして城娘の時は先を千成瓢箪で結び頭に小天守を模した髪飾りを付け顔に少しペイント、緑の軽装鎧身を包み竹槍を所持している。

 御嬢の時は華の髪飾りで長い三つ編みの先は赤い紐で結び、白地に袖口下から青の大きな華模様の着物にライトグレーというか二十世紀梨の皮の色っぽい。それと黒インナー

 そしてそのバストは豊満であった。なお見た目つり目気味なので凛々しい感じだが口調は少しボーイッシュだが飄々として素朴な感じ。

 性格は戦うときは少し強気だが根は素朴謙虚。そして畑仕事が大好き。千成瓢箪は長浜城から預かっているだけらしい

 ユニットとしてはコモンの平山水であり、対空能力はないが同コモン槍最速の攻撃速度・2番目に高い耐久と攻撃範囲を持っており、自分と近い範囲の味方の攻撃範囲を広げるスキルを持っている。

城プロ、始めました

普段の姿(真ん中)

防己尾城 改壱

城娘時

御城プロジェクト!

キャラデザイナー(本編立ち絵絵師さんとは別の方)によるイラスト(1枚目の一番左)


関連項目

御城プロジェクト 城娘 鳥取城 鹿野城 長浜城


実在した城の概要

 この城の正確な築城年代は不明である。記録上では16世紀中期頃には元になる城は築城されていたと云われている。

 少なくとも天正年間の1579年頃には山名氏を主家として仕えていた吉岡定勝の手により平山城の状態にはなっていたと云われており、江戸時代までこの城は防己尾城ではなく吉岡城亀山城と呼ばれていたらしい(これらの名称は他の城とかぶるためここでは便宜上防己尾城で統一する)。

 実は吉岡氏は防己尾城から南に約1.5kmにあった丸山城(鳥取には丸山城と呼ばれる城が3つ存在、すなわち因幡国邑美郡に存在する城、同地に存在し現在河原城と呼ばれる城、そしてここで話題とする因幡国高草郡に存在した城がある)を拠点としていたのであるが、その城は籠城時の防衛力に難があったため丸山城から見て約2km南の蓑上城(山城)に居を構えた。これにより防衛力は格段に上がったものの今度は物流面で難が出たため、約4km北の3方を湖山池に囲まれた防己尾城に居を構え直した経緯がある。

 なお、合戦の後この城は焼き払われ、廃城になり、再建されることはなかったと思われる。

構造

 城の構造としては西の山を本丸東の山を二の丸にし、陸側は曲輪で防御し湖(この城は湖山池という湖の半島状に突き出した所に位置している)側は本丸・二の丸で監視する体制だと思われている。

歴史

 天正8年豊臣秀吉による第1次鳥取城攻撃の際は主家の山名豊国鳥取城で3ヶ月の籠城戦の末、織田方に降伏、さらに入れ替わりにやってきた毛利方に降伏。トドメに豊国の織田方への出奔もあり、この時は吉岡氏・防己尾城共に特に活躍はなかった。

 そして吉岡氏は毛利方に領土を安堵され、翌年の天正9年、第2次鳥取城攻撃の際、毛利方の吉川経家の元で奮戦、この城に篭って遊撃していた。

 それに懸念を抱いた秀吉は鹿野城守将亀井茲矩に攻略の命を下した(茲矩側が懸念を抱いて進言し自ら防己尾城攻略に向かったという話もある)が、その動きを察知した吉岡氏は城周辺の竹林を切り払って先をのように尖らせたベトコン張りのブービートラップなどの準備をし近隣の村人とともに籠城、対抗の構えを見せる。

 この城を攻め落とそうと2~3度ほど戦闘が起こったものの、吉岡氏側が亀井氏本陣を突き崩す寸前まで持っていったとか、秀吉子飼いの多賀文蔵千成瓢箪の馬印を定勝の弟右近に奪われ奪還しようとした所討死したとか、秀吉本陣まで参戦し亀井氏は陸側から秀吉は湖側から一斉攻撃を行ったものの竹槍トラップや落石攻撃などで予想以上に被害を受け、秀吉のテンションが下がったなどで撃退。

 秀吉は茲矩に兵糧攻めの指示を出し鳥取城包囲に戻り、茲矩はこの城にも兵糧攻めを実行。城内の兵糧が尽き、籠城していた村人も次第に城を抜け出して城内の人数はわずかとなり、敗北を悟った定勝は周囲の者に城を落ちるように命じ、自らも夜陰に紛れて船で脱出、落城した。

 その後この城は亀井氏によって焼き討ちされたとも秀吉方の兵が駐留していたが吉川元春に攻め落とされたとも伝わっており、どちらにせよその後再建されず廃城となったと思われる。

 尚、脱出に成功した吉岡定勝は、毛利氏のところに一時いたものの、その後諸国放浪の末に因幡国に戻り帰農したと云われる。


現状

 この城跡は現在は湖山池公園としてある程度整備されているが土塁、曲輪跡、竪堀跡、切岸が明瞭に存在しており、虎口跡なども残っている。

 もし、この城に聖地巡礼などしよう考えてる人はついでに丸山城・蓑上城も散策して吉岡氏の名前のついた吉岡温泉に浸かっていただければと言うのもありかと思っている。


関連項目

吉川経家 吉川元春 鳥取の飢え殺し


関連項目


参照

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