曖昧さ回避
概要
クモヤ143
首都圏国電線区のATC化の対応と、老朽化した旧型国電改造の事業用車の置換用として1977年に登場。新造車の0番台と改造車の50番台の2タイプが存在する。
0番台
1977年から1980年にかけて21両が近畿車輛と日立製作所で製造され、浦和、品川などの首都圏各地の電車区に配置された。製造当初より排障器(スカート)を装備している。国鉄分割民営化時に全車両がJR東日本に継承され、3号がクモヤ743に改造された。2004年に17号と18号がE491系導入に伴い廃車されたが、現車は訓練用として残った。後年廃車が進行し、編集時点で車籍を有するのは3両のみとなっている。
牽引車として本線を走行する他、各車両基地での入換作業、最寄駅と車両基地間の職員輸送などに用いられる。一部の車両はブレーキ装置が電気指令式ブレーキ車両との併結に対応すべく改修されている他、川越車両センター配置の11号と東京総合車両センター配置車の一部はATCが100km/hに対応する。
塗装は基本的に事業用車標準色の「青15号」と警戒色を意味する「黄5号」であるが、既に廃車されている国府津車両センター配置の4号は「湘南色」であった。
なお、JRが誕生して間もない頃、首都圏のATCに対応していない165系を臨時列車として運行する際、ATC対応のクモヤ143を連結して力技で乗り切ったという事例が何度かある。営業列車の先頭にクモヤ143が立っているレアな光景だった。
50番台
1986年国鉄の荷物輸送全廃に伴い、余剰となったクモニ143形から編入された。外観上は連結器が双頭連結器に交換され、スカートを撤去したこと以外種車から殆ど変わっておらず、塗装も「湘南色」のまま、車内も荷物電車時代そのままである。
性能は基本的に0番台と揃えられているが、こちらは交直流電車の制御も可能なのが特徴。松本車両センターと新潟車両センターに1両ずつ配置されており、配置区の関係からATCは搭載していない。
クモニ143
老朽化した旧型国電改造の荷物電車の置換用として1978年と1982年の2回に分けて、近畿車輛で8両が製造された。塗装は「湘南色」。
最終増備車の登場からわずか4年で国鉄の荷物輸送が全廃され用途を失ったが、まだまだ新車であったことから6両が123系に、2両が上記クモヤ143形50番台に改造の上で継続使用となった。
クモユ143
1982年に長野地区の郵便車併結客車列車の一部が電車化されることに伴い、川崎重工で3両が製造された。国鉄ではなく郵政省が所有する私有車(車籍だけ国鉄に置く)であり、基本的な仕様は他を踏襲するが一族で唯一冷房付きで製造されたのが特徴であった。
1986年に郵政省が鉄道郵便輸送を廃止したために用途が失われ、国鉄の財政難もあって譲渡やクモニ143のような改造は行われず、登場からわずか4年で全車両が解体された。
余談だが、後に発足したJR西日本は、クモハ84という荷物車改造の旅客車を3両登場させている。これらは元を辿れば旧型国電であり、当然非冷房のまま就役した。
廃車が1年でも遅ければ、所有権の移転が円滑に行われていれば、と思えてならない・・・
クモユニ143
1981年身延線の新性能化により登場。身延線の輸送需要から郵便・荷物合造車として近畿車輛で4両が製造された。身延線に存在する狭小トンネルに対応した車両限界の関係上、パンタグラフ部分の屋根が低く切り下げられている。
1985年3月に身延線の郵便・荷物輸送が廃止され、長岡運転所に転属。スノープラウが取り付けられた。
1986年に国鉄全体の郵便・荷物輸送全廃に伴い運用を離脱。しかし外房線・内房線の新聞輸送だけは房総半島の道路事情の関係で廃止されず、そこで使われていたクモユニ74の置き換えのために全車両が幕張電車区へと転属した。幕張転属時にスノープラウは撤去されている。
塗装は登場から長岡転属までがワインレッドをベースに白帯を巻いたいわゆる「身延色」、長岡転属時に「湘南色」に塗り替えられているが、1号のみ湘南色をまとっていたことはない。幕張転属時に「横須賀色」に塗り替えられた。
1996年に房総地区の新聞輸送が運用合理化のために113系に置き換えられたが、1号と3号は構内入換や職員輸送に使われていたクモヤ90の置き換えのため長野総合車両所に転属した。長野転属時にスカートを撤去し、後に連結器も密着連結器から双頭連結器に交換している。
2号は1997年に除籍されたが、現車は東京総合車両センターの入換機械として2010年2月まで残った。4号は小山電車区に転属したが大宮で留置された後2000年に除籍され、解体された。