概要
トヨタが1984年から1999年まで発売した製造販売したスポーツカー。
国内では上位機種の名称であったMR-Sに引き継がれる形で販売終了したが、海外ではこの名前は引き継がれた。
名称はミッドシップ・ランナバウト・2シーターマシン(ミッドシップは前後輪の間にエンジンを置いた駆動形式の事。要は「ミッドシップレイアウトを採用した2人乗りの車」という意味である)の略称。
流麗なデザインは女性からも人気が高い。
モデル
1500cc~2000ccのエンジンを中央に置き後輪で駆動するMRレイアウトを採用。
フルモデルチェンジによってAW型とSW型に分かれる。
AW型
1.5L・SOHC・シングルキャブの3A-LUエンジンを採用した廉価モデルAW10型(グレードS)と、1.6L・DOHC・インジェクターの4A-G系エンジンを搭載したAW11型(自然吸気のグレードG及びスーパーチャージャーのG-Limited)が存在する。
1983年に発表された試作車を元に1984年より販売開始。
国産・戦後初の量産型リアミッドシップエンジンとして知られる。
また大量生産しやすいようにカローラのエンジンや足回りが流用された。
1500~1600ccと排気量が妙に少ないのはこのためである。
マイナーチェンジ(内装の変更、スーパーチャージャーなどが搭載可能に)を一回行い、1989年に次のSW20に引き継がれた。
TTEがこの車両をグループS規定の下に改造してWRCに参戦する計画も存在した(222D)が、出場予定前年にグループSの元となったグループB規定下のレースにおいて死亡事故が発生。
それを受けてグループBが廃止され、同時にグループBを先鋭化した存在であったグループS自体が消失したため立ち消えとなった。
計画自体は消滅したものの、グループS規定の下に改造された試作車両自体は数台存在しており、国内に白の222Dが、イギリスには黒が存在する。
SW20
1989年に発売。
以前のモデルと異なりセリカをベースとして開発され、エンジンを2000cc(ターボチャージャーあり、なし)に変更した(当然ミッドシップである)。
マイナーチェンジによって安定性や操作性が大きく改善されており、特に発売時(通称I型)は足回りの調整不足や前後重量配分のバランスの悪さからスピンしやすく、当時はスポーツ走行時において「プロドライバーが乗っても唐突にスピンする危険な車」と言われていた程だが、その後の93年型・96年型・97年型(それぞれ通称III~V型)ではそれらが大きく改善され、走りやすさだけを見れば全く別の車とも言える程になっている。
尚、MRレイアウトの特徴として「グリップ走行時の基本性能や安定性はFF・FRに比べて高いが、限界を超えた時にリアがエンジンのせいで重い反面、フロントは殆ど重量物が無く軽い為にスピンしやすい」というものがあり、この「唐突にスピンする」というのはMRレイアウトの宿命とも言えるものではある。
その中で、MRレイアウト車両のノウハウの不足から不幸にもその特徴が極めて大きく出てしまったのがI型だった。
1991年一度目のマイナーチェンジにてブレーキの強化、タイヤの口径変更などを行った。
1993年に2度目のマイナーチェンジを行うが、これはセリカ(およびコロナ、カリーナ)のモデルチェンジにあわせたものと推測される。
1996年のマイナーチェンジにはブレーキの構造変化および助手席へのエアバッグ装着し、外装を変更。
1997年のマイナーチェンジでは、軽量化、エンジン変更、排気系改良、内装の変更を行う。
1999年に後継車両のMR-Sに引き継がれ、販売中止。
この価格帯の車種で10年にもわたる同一モデルの生産は当時のトヨタとしては比較的珍しい。
モリゾウ(豊田章男社長)のドライビングの師匠であり、MR2の「味付け」を担当したテストドライバーの成瀬弘は、このモデルの自然吸気グレードに「この価格帯では世界一」という自信を持っていたとされている。
JGTC(全日本GT選手権)ではプライベーターたちの手によって活躍。特に1998年、伝説のエンジニア・土屋春雄が手掛けたMR2の6戦5勝という勝率は現在まで破られていない。
意外なところでは、ル・マン24時間のGT1規定でサードがベース車両として用いていた。『MC8R』と名付けられたこのマシンは、セルシオのV8自然吸気をツインターボ化したエンジンをミッドシップに搭載していたが、3年間で完走は1度(総合24位)のみという寂しい結果に終わっている。