概要
中国の『三国志』魏書「烏丸・鮮卑・東夷伝」倭人条(『魏志』倭人伝)によれば、「倭国」では「卑弥呼」とよばれる女王が、「鬼道」を司るという宗教的権威で国内を治めていたとされる。
卑弥呼は倭国大乱と呼ばれた大規模な内乱を収めるために有力者たち共同で女王に擁立された。
また三国の魏に使者を送り、親魏倭王の称号と金印、銅鏡100枚等を受け取っている。
「倭国」内でも卑弥呼が都を置いていた最有力の都市国家を「邪馬臺國」(現在の表記では「邪馬台国」)と称する。
「邪馬台国」は現在の日本では「やまたいこく」とよまれるのが一般的だが、本来「やまとこく」と訓読すべきものとみられる(後述)。
邪馬台国を中心とした当時の倭国の風俗は、淫らなところがなく、盗みや争論も少なく、上の者の言いつけがよく守られたという。特別なことを行うときは占卜が行われ、兵器は矛・盾・木弓を用いる。幅広い布を結び合わせて衣服とし、婦人も中央に孔をあけた貫頭衣を着ている。土地は温暖で稲を育て、民は酒を好む。また蚕を育て絹織物を特産とする。倭国は良い田んぼが無く、倭人は海から魚などを捕まえて食べている。男や女も皆が顔などに入れ墨をしていた。
対立国「狗奴国」との戦が続く中で「卑弥呼」が亡くなり、男の王が続くも国は乱れ、しかたがないので新たな女王「台与」(壱与)が即いたという。
史実性
ただしこれを歴史として見た時、文字資料はほぼ魏志倭人伝のみでありそれ以外の資料との比較検証には問題がある。日本側での最古の資料は、日本書紀にて神功皇后の事績が魏志の倭国女王と関連するのではないか、という記述があるのみであり、年代的にも邪馬台国は神功皇后の活躍した年代とは一致しない(水野正好ら『邪馬台国』pp.9)。
「倭国」の条は、中国の景初年間に公孫淵を滅ぼした司馬懿の功績を宣揚するために執筆されたともいう。こうした目的に基づいた中国史の一部であるならば、東夷伝には理念に基づく記述の歪みが多く含まれている可能性がある。
ただし、同時代の文字資料が皆無なわけではない。後述するように三輪王朝と邪馬台国はほぼ同時代であるが、三輪王朝の古墳から発掘される副葬品の三角縁神獣鏡には、景初3年等の邪馬台国当時の魏の年号が入ったものが多数ある。三角縁神獣鏡が魏で製造されたものであるかは長年の論争があるが、少なくともこの文字資料には何らかの解釈が必要である。
国名や人物名の漢字
「邪馬台国」「卑弥呼」という表現は、周囲の民族を軽蔑する中華思想に基づくものであり、「邪」は「邪悪」、「卑」は「卑しい」などに用いる悪い意味を持つ漢字であり、伝統的に中国王朝が異民族に命名する際に用いられる手法である。一般に中華思想においては「匈奴」等のように遠方の諸民族に対しては、悪い意味の漢字を用いる慣例があるのだ。
この発想は日本にも伝染し、日本列島ではヤマト王朝は中国から漢字を借りて自分達に従わない地域を「東夷」「蝦夷」として蛮族扱いし現在の関東や東北への侵略を正当化していった(現在の日本人は実は侵略者と被侵略者のハーフであり、東西の遺伝子差異はまだ残っている。ついでになんだかんだいって漢字も廃止できなかった)。
「倭」については、「女」が入っている字は基本的に悪い意味なことが多いため、やはり良い意味は無いとは推測されるが、何を意図したかは諸説ある。一条兼良『日本書紀纂疏』は「倭人の人心が従順だったからだ」と唱え、木下順庵らは小柄な人々であるという意味で解釈しているが詳細は不明である。
ヤマト国かヤマイ国か
『三国志』の版本の中で最良とされてきた百衲本をはじめ、多くの本には「邪馬壹國」(現在の略字体表記では邪馬壱国)と表記されているが、この表記は誤りで「邪馬臺國」(邪馬台国)が正しいとするのが一般的な説である。現在使われる新字体では分かりにくいが、台は臺、壱は壹で、まったく異なる文字である。
これについて、廬弼による『三国志集解』は、次のように述べている。
『後漢書』は「邪馬壹国」を「邪馬臺国」につくる。
「邪馬臺」は、日本語の「太和」という二字の音訳である。
ここで「壹」につくることは、誤りである。
(黄遵憲の)『日本国志』に、「神武天皇は太和の橿原で即位した」とある。
としており、『後漢書』を根拠に「壹」を「臺」の誤りとする穏当な解釈をしている。
位置
邪馬台国研究で最大の論点は「邪馬台国がどこか?」である。この邪馬台国の位置に関する論争は江戸時代から続いており、有力候補は近畿説と九州説の二つ。近畿説の最大の根拠は魏の年号が入った三角縁神獣鏡が近畿地方を中心出土すること。九州説の最大の根拠は倭人伝によれば帯方郡から邪馬台国まで12000里、帯方郡から伊都国(通常福岡県と推定)までが合計10500里、つまり邪馬台国までは残り1500里しかないという計算である。九州説のバリエーションとして、九州から近畿に東遷したとする説もある。
東遷説の場合、日本神話における神武天皇の「神武東遷」から発想がきているものが多い。また、国そのものが移動した説と、邪馬台国から分裂した勢力が近畿で大和王権になったとする説がある。
他にも四国説・中国地方説・千葉県説・新潟県説・沖縄県説など。果ては朝鮮半島説・南洋説など日本国外にあったとする推測もある。
また『三国志』を執筆した陳寿は、当時の西晋の国情から『礼記』や『漢書』に依拠しながら、東南の大国としての「倭国」の習俗を理念的に創りあげたともいう。倭人伝に記される「邪馬台国」は会稽郡東冶県の東方海上、すなわち西晋にとって敵となる呉国を背後から牽制しうる地勢の大国として記述されたというのだ。
このように魏志の中国からの道筋の記述通りに邪馬台国に行こうとすれば、呉の東方、九州の南方の海の上にたどり着いてしまう。それゆえ位置論には、原文に何らかの解釈が必要となる。九州説では、距離の単位が現代と異なっていると解釈し、邪馬台国を九州のどこかに推定する。三角縁神獣鏡が近畿中心に分布する理由については、そもそも同じ形の鏡が中国でみつかっておらず、国産で作られた鏡であって重要な遺物ではない、卑弥呼の死後に邪馬台国が近畿へ東遷して中心が移動した等と解釈する。大和説では魏志では東を南と誤って記述しているとして原文からの邪馬台国推定位置を大和に導く。その根拠が明代の地図「混一疆理歴代国都地図」において、東を南として日本が描かれているというもの。伊都国から1500里という計算については、魏志が東西南北遠方の主要な国々をどれも12000里前後の距離にあると記載していることから距離の数字は政治的形式的な記述に過ぎない等とする。
現状
近年の年輪年代測定法と放射性炭素年代測定法の発達により、古墳時代の年代推定は正確さを増している。纏向石塚古墳等の初期の古墳は西暦200年ごろ、最初の巨大前方後円墳である箸墓古墳は240年~260年頃に築かれたと推定されている。倭人伝では卑弥呼が共立されたのは200年ごろ、親魏倭王印を得たのは239年、卑弥呼の没は248年頃であり、邪馬台国の時代は古墳時代初期と重なってきている。(水野正好ら『邪馬台国』pp.1)。箸墓古墳の近くには倭国大乱期から古墳時代にかけて栄えた纏向遺跡という巨大な都の遺跡が存在する。
水野らは邪馬台国を初期の大和朝廷であるとみなし、ヤマト国と読むべきであるとしている。確かに、この時代の日本列島は巨大古墳も大和に集中しており、また三角縁神獣鏡も畿内を中心に分布しており、しかもそこには卑弥呼が使いを送って銅鏡を受け取ったという魏の年号が刻まれているのである。魏に使いを送る大国たる当時の倭国の都がどこかといえば、それは大和の纏向というのが自然な推測である。ただし、西川寿勝(水野正好ら『邪馬台国』pp.76)が指摘するように、三角縁神獣鏡は一般に古墳の柩外に大量に並べられ、むしろ柩内から発見される呉鏡等の方が大切に扱われていた可能性がある、といった問題もある。卑弥呼の思惑通りに各地の豪族が従っていたとは限らないのである。
こうして考古学の発展に伴って、魏志倭人伝の範囲にとらわれない、日本側から見た邪馬台国像というものが現代には求められつつあるといえよう。例えば巨大古墳の造営時期はかなり正確に特定されてきているが、その被葬者は考古学の発達する前の明治時代に陵墓として指定されたために邪馬台国の時代から大和朝廷のオオキミに至るまで不明な点が多い。また、纏向遺跡の出土品の特徴は近隣に先行して栄えた唐古・鍵遺跡と必ずしも一致しない。纏向の人々はどこから来たのであろうか。三角縁神獣鏡や銅矛・銅剣文化といった王権の象徴と、後世の三種の神器とはどのような関係にあるのだろうか。邪馬台国論争の謎は今もなお深まるばかりである。
文献
水野正好・白石太一郎・西川寿勝 2010 『邪馬台国-唐古・鍵遺跡から箸墓古墳へ』雄山閣.