概要
1978年の開港から2004年までは新東京国際空港と称した。
空港建設反対闘争(三里塚闘争)
Googleマップなどで見てもらえばわかるだろうが、なんとこの空港、敷地内に私有地がある。
いや、正確に言えば私有地を取り囲むように空港が建設されているのだ。そしてその私有地には現在でも民間人が農作業やペンション業に従事し、時折「空港の廃港」を主張する団体がデモを行っている。
なぜこのようなことになっているのか。成田空港を語るには避けて通れない暗い負の歴史がある
空港の建設地に選ばれた三里塚周辺は、戦後満州や沖縄からの引揚者が国策で入植し、20年近い歳月をかけてようやく自分の土地で耕作することが出来るようになった農家が多かった。そのため国側も建設地の選定に際し、「先祖代々の土地ではないから、容易に手放すだろう」とタカをくくった節もあったのである。
国側も相場の5倍以上の値段で土地を買収すること、民家の建て替え費の保証など破格の条件で立ち退きを提案し、予定された89%もの土地を買収することに成功した。
しかし、残った強硬派の反対派に対しては空港建設を大前提かつ「金で動くに決まっている」という態度をとった。その上、空港との共存が一般的ではない当時はまだ戦争の記憶が色濃く、「騒音で牛の乳が出なくなる」「実は軍事空港で、戦争が起きたら爆弾が落とされる」といった根拠のないデモにおびえた農民たちの不安払拭に努めないなど、不誠実な対応を取り続けた。
これに地元農民は猛反発し「三里塚芝山連合空港反対同盟」を結成、空港建設に抗議を始めた。後に革新政党である日本社会党や日本共産党も支持に回り、運動は大きな広がりを見せた。
これが半世紀以上に渡る「三里塚闘争」の幕開けであった
抗議する地元農民に対し、空港公団(国)側が公権力を駆使した土地の強制収用を示唆したこと、また新左翼の活動が活発な時代だったこともあり、1967年に羽田闘争において機動隊と衝突した全学連の学生を見た反対派の指導者が新左翼の受け入れを表明。これに乗じた中核派や革労協、解放派をはじめとする過激派集団が成田入りし、代執行に際しては学生運動の衰退によって勢いをなくした学生たちが勢力挽回を目論み反対運動に参加して事実上の大暴動に発展した。
新左翼の介入によって勢いを得た反対派は大規模なデモや公団職員や建設のために派遣された労働者に嫌がらせを行うなど、行動を過激化させていった。
しかし、新左翼の介入によって事態は完全に泥沼化し、長年に亘り流血を伴う凶悪な事件が発生するなど、現在に至る深い禍根を残すことになった。
1971年2月22日に開始された第一次土地収用強制代執行において、暴徒と化した彼らは現地に於いて空港公団や全国から送り込まれた機動隊と衝突を繰り返した。その様子は、まるで戦国時代を思わせる凄惨な有様だった。
農民は地下壕や団結砦に立て篭もり、過激派は火炎瓶や人糞を袋に詰めた「黄金爆弾」を機動隊に投げつけるなど執拗に抵抗を行い、代執行闘争を一目見ようと押し寄せていた野次馬も反対派に乗じて投石を始めた。対する空港公団も反対派が体を縛り付けている木や鉄塔を反対派の農民ごとクレーンを使って倒すという容赦のない土地収用を強行した(一応受け止めるために網を張っていたが、あまり役には立たなかった)。公団の他にも、現地に派遣されたガードマンらが投石や奪った竹槍などで反対派を攻撃したり、闘争に参加していた農家の子供を警棒で乱打するなど、憎しみがぶつかり合った。このガードマンの多くは土地受け渡しに応じた地権者であり、反対派からは顔を合わせる度に罵声を浴びせられるなどの嫌がらせを受けていたが、反対派への攻撃を行ったのは東京などから派遣された者だった。
当時マスコミ世論は反対派側についており、テレビ局の車を使って機動隊を妨害した他、空港建設のために派遣された業者が投石用の石を提供したり、町の酒屋が火炎瓶に用いるための空き瓶を渡すなど、第三者の支援も空港建設の妨げになっていた。投石を行い逮捕された者の中には空港公団職員もいた。
その一方で、警察は反対運動の経緯から農民の主張には理解を示していた。というのも、元々三里塚は警察に奉職する者が多く、警備に動員される機動隊員の中には反対派の農家出身者が多数いたのである。流石に公団職員のような不届き者はいなかったが、逮捕された農民を起訴せず釈放するなど生活に配慮していたり、闘争前に機動隊員と反対派の農民がちょっとした雑談を交わすなど、僅かに交流もあったらしい。
同時期に、赤塚不二夫が現地に駆けつけ闘争に参加したり、翌年あさま山荘事件を起こす連合赤軍が山奥に設置した拠点(山岳ベース)に反対派が野菜を差し入れたりしていた。
しかし、運動の過激化は運動の勝利を齎すことはなかった。かねてより敵対していた新左翼の傘下に日本共産党は早々に決別、日本社会党も一部の運動は手助けしていたが、運動の過激化に反発し「過激派とは共闘しない」と宣言。国会に議席を持つ政党の支持を失った反対派は国会に自分たちの声を直接届ける能力を失い、内輪の論理や規律ばかりが優先され、手段が目的化していった。
新左翼の中でも革マル派は三里塚闘争に否定的であり、現地で素行不良を繰り返したため反対運動を追放された。その後は敵対セクトが多く参加していることもあり、度々嫌がらせを行うなど妨害をしていた。
同年9月16日に第二次強制代執行が決定されたが、第一次代執行に於いて反対派に加えて野次馬や支援に来た一般人まで作業を妨害したため、警備側は全国から機動隊を大幅動員し、代執行周辺地域に検問を三重に設置し、野次馬や現地入りした過激派集団を寄せ付けない計画を立てた。駒井野、天浪など反対派の立て籠もる代執行予定地に精鋭の警視庁機動隊と千葉県警機動隊を集中させ、その周辺は関東各県から応援派遣された正規の機動隊が、予定地から離れた地区は一般の警察署員などで編成された特別機動隊が主に担当することとなった。
対する反対派・学生ゲリラは検問を強行突破する方針を打ち出し、周辺地域に凶器を隠匿し、それを補給しながら代執行予定地を目指す計画を立てた。農民は代執行予定地や周辺地域の模型を作って作戦を立て、警察無線の盗聴を行なって機動隊の動向を察知するなど入念に打ち合わせを行った。しかし現地入りした過激派学生は、かつての大学闘争で敗れた恨みを代執行阻止闘争に便乗して機動隊に叩きつけることを目論んでいた。
この時、精鋭部隊を最前線に集中させ外周警戒部隊を離れた地域に配備したことが成田闘争最大の惨劇に繋がることになる…。
16日早朝より代執行開始が宣言された。代執行予定地では投石や火炎瓶で攻撃する反対派に機動隊が放水とガス銃で応戦し、双方は激しく衝突した。また代執行開始直後から、過激派学生と道案内役の青年行動隊から成るゲリラ部隊が周辺地域の警備を担当する機動隊を襲撃し始めた。
そして悲劇は起きた。
代執行予定地域から離れた東峰地区の交差点(東峰十字路)には、臨時編成の神奈川県警機動隊「堀田大隊」が配置された。東峰十字路は松や杉、孟宗竹が密生する雑木林に囲まれており、ここに反対派が火炎瓶などの凶器を隠しているとの情報が入っていたため、それの発見・確保が堀田大隊の任務であった。だが雑木林の中には、「機動隊殲滅」を目的にした学生ゲリラが潜んでいたのだ。
堀田大隊が各小隊に分散し検索を開始した途端、茂みの中に潜んでいた過激派学生の集団が一斉に襲いかかった。堀田大隊は機動隊の経験が無い若手警察官を中心に臨時編成された部隊のため練度が低く、学生の触発式火炎瓶を用いた激しい攻撃に対処しきれず、堀田大隊長が骨折するなど多数の負傷者を出し潰走した。その内、十字路北方に展開していた「福島小隊」30人が本隊から孤立し、包囲する200人を越す学生からから執拗な攻撃を受けほぼ全滅、逃げ遅れた福島小隊長ら3名が火炎瓶を投げつけられた上に全身を滅多打ちにされ惨殺された。その遺体の損傷は凄まじく、遺体を回収した関係者が「これが人間のすることか!」と、激昂したほどだった(東峰十字路事件)。
死者が出たことを受け、副知事が代執行の中止を警備本部に申し入れるが、警備本部は殉職者のためにも代執行を完了させるとして作業を続行。警官死亡の一報を無線で受け取った現場最前線の機動隊員は激怒し、反対派の立て籠もる団結砦に殺到、放水やガス銃による激しい攻撃を続けた。放水車の水を使い果たし、さらに防石用ネットが反対派に破られるなど一時は機動隊が劣勢に立たされるが、仲間を殺された怒りに燃える機動隊は煙幕やショベルカーを用いて「砦」を破壊し、中の農民や学生を引きずり出した。周辺地域でも応援に駆けつけた警視庁機動隊によって学生ゲリラが次々逮捕されていった。
午後には全ての拠点が制圧されたが、駒井野では学生10人を乗せた鉄塔が倒れ、火炎瓶が爆発して学生が火達磨になり危篤状態となった。炎に包まれた学生に機動隊員は盾を地面に打ち付けながら「ざまあみろ、人殺しが!」と罵り歓声をあげた。
空港公団及び千葉県知事は機動隊員の疲れなどから20日に作業をしないと発表し、これを受けて支援学生は一時帰郷したが、その隙に機動隊と公団職員が現れ農民の老婆を引きずり出し、民家を撤去した。最初で最後となる民家の撤去を持って第二次代執行は終了した。
貧農の老婆の目の前で家を破壊する行為に反対派はますます憎悪を募らせたが、この「騙し討ち」を目の当たりにしてその容赦のなさに衝撃を受けたことと、一方多くの逮捕者を出したことで保釈金や裁判の費用の捻出などで出稼ぎに出る農家が続出し、物理的にも精神的にも運動から離れていく農家が出始める。
機動隊惨殺をきっかけに、それまで反対派寄りだったマスコミが一斉に政府側に寝返った上に、反対派に同情していた警察も地元農民に敵意を剥き出しにし、農民やその子供たち(農家の子供らも機動隊や公団への妨害に参加していた)にも罵声を浴びせるようになり、捕らえた反対派に必要以上の暴力やリンチを加える事例が多発するなど事態はさらに泥沼化の一途を辿った。
1972年に発生したあさま山荘事件や山岳ベース事件などの大量虐殺事件の発覚によって全国的に新左翼・過激派への嫌悪が広がり、反対同盟も新左翼と同列に見做され、支持を失った。
世間から指弾を受けるようになった農民は土地の受け渡しに応じるなど反対運動から離れるようになったが、そうした農家は反対同盟から「脱落」の烙印を押され、畑を荒らされたり村八分同様の扱いを受けるなどした。農民が運動を離れると新左翼各派が運動を牛耳るようになった。
反対派の農民は、機動隊と学生の憎しみ合う姿に「我々が望んだ反対運動ではない」と嘆き、身を引こうと考える者もいたが東京などから(あくまで空港反対のために)女学生の活動家が嫁いできた農家などは、嫁に申し訳ないからと渋々運動を続ける羽目になった者も少なくない。
その新左翼も党派間での内ゲバが発生し、農民を自派に囲い込んで内部抗争を始めた。農民間でも新左翼との共闘に疑問の声まで始めたが、空港反対同盟を率いた戸村一作、北原鉱治の両名は思想が極左寄りになっていき、「軍事空港廃港」を掲げ更に過激化した。そもそも極左過激派を受け入れたのは自分たちであるため、結局は縁を切れずに終わった。
機動隊惨殺の他にも、1977年には非戦闘員であることをアピールするために赤十字マークの入ったゼッケンをつけ(違法行為)闘争の最前線にいた青年が死亡し(東山事件)、「機動隊が催涙ガス銃を水平撃ちしたことによる銃殺」を主張する反対派により交番が襲われ警察官が殺害されたり(芝山町長宅前臨時派出所襲撃事件)、反対派から自殺者が出るなど、複数の死者を出した。
また、宿場を燃やされた公団関係者が反対派の集落に放火するなど、相互間の憎悪は深まっていった。
開港直前には管制塔が占拠されて設備が破壊され(管制塔襲撃事件)開港が延期された他、空港へのアクセスを担う京成電鉄のスカイライナー放火事件が発生、開港後も国鉄の航空燃料輸送列車が焼き討ちに遭うなど、関連施設や人物への妨害・襲撃事件が絶えなかった。
1985年に中核派を主力とする極左集団が空港突入を目論み、三里塚交差点で警視庁機動隊と衝突し、管制塔に散弾が撃ち込まれる事件が発生した(10.20成田現地闘争)。それを最後に死者、負傷者が出るほどの闘争は起きていない。が、空港公団関係者が中核派に襲われるなどの事件は平成初期まで続いた。
その影響は非常に大きく、空港内は事実上関係者と利用客以外の立ち入り制限は長く続き、検問所に於ける入場者の身分チェックは近年まで続けられた。
90年代前後に入ると、国側もこれまでの対応のまずさを認識するようになり、また反対派側も世代交代が進むと一部穏健派の中で国との和解を探ろうとする動きが活発化した。穏健派は国側と円卓会議を取り持ち、国からの公式謝罪と今後は対話による土地の収用を目指すとした言質を勝ち取るなど成果を上げ、これを機に土地の収用に応じる農家が続出していった。
また、空港によって海外旅行が身近になったことや、家族親類が空港や関連企業に就職したことで反対運動から身を引く者も出始め、東峰十字路事件で殉職した警官の慰霊碑に元反対同盟員が献花するなど、僅かに雪解けも始まっている。この元反対同盟員の中には町長として強力に空港の発展に寄与する人物や、新左翼の構成員のほとんどが成田空港の近くに生活しないで反対派と苦楽を共にせず、自分達の思想のためだけに利用していると考え批判する人物が現れている。
三里塚芝山連合空港反対同盟は現存しなおも廃港を主張しているが、著しい高齢化とメンバーの減少でかつての勢いは面影もなく、年に数回シュプレヒコールをあげるだけの小さな集会を開くだけにまで弱体化している。沖縄の米軍基地反対運動など左派と親和性の高い社会問題を通して他の左派勢力との連携や組織のてこ入れと存続を測っているが、将来的な見通しは極めて不透明なままとなっている。
現在と影響
成田空港は開港から40年以上たった現在も未完成である。未収用農地を避けるように滑走路Bは短く作られ、横風滑走路も使用不能、深夜の利用も不可能になっている。
そうこうしているうちに大規模な拡張を前提として作られた韓国の仁川国際空港が「日本のハブ空港」と冗談交じりに言われるほどに発展し、これに対抗して羽田空港の国際化が限られたスペースの中で進んだ。
成田空港は大金を投じて新しい土地を収用して新滑走路とターミナルを建設して機能を強化しようとするなど、後手後手に回っている。
国益のために強引な手段を使ってまで作られた空港が、国益を損なう存在になってしまっているのは皮肉としか言いようがない。
成田空港以降、国側は「強引な建設は逆に長引き、暴力沙汰になりかねない」こと、民間人側も「新左翼の受け入れは事態を泥沼化させ、手段が目的化してしまう」ということを認識するようになり、双方ともに時間がかかっても話し合いによる解決を図るようになった。
新空港も多少コスト高でも土地問題が発生しにくい遠隔地や、海上に建設される傾向にある。
ドイツのミュンヘンでも、新空港建設の際当初行政が傲慢な態度をとっていたが、同時代に起こった三里塚闘争を見ると態度を改め三里塚闘争を徹底的に研究し分析、対話路線へと方針を転換した。
4年間で約260回のタウンミーティングを開催して反対派を説得し、説得に成功したのちも裁判などを経て敷地面積や夜間発着枠の制限などで歩み寄りを見せただけではなく、ターミナルビルのデザイン会議に住民代表を招くなどして官民合作の態をとることに努めた。
決定から完成までに25年以上の歳月がかかったが、ミュンヘン国際空港はそのスペックを持てあますことなく機能させてドイツ第2、欧州有数のハブ空港として運営され、その開港式も成田とは対照的に地元住民の祝福に包まれたものだった。
構成
旅客用ターミナルは第一~第三ターミナルの3つがある。
第一ターミナル
初期に開業したターミナル。
北ウイングは主にスカイチームに加盟する航空会社が使用している。
南ウイングは主にスターアライアンスに加盟する航空会社が使用している。
国内の航空会社ではANAが使用している。
第二ターミナル
1992年に増設されたターミナル。
主にワンワールドに加盟する航空会社が使用している。
国内の航空会社ではJALが使用している。
また本空港発着の国内線も主にこちらから発着する。
かつてはLCCの多くがこちらから発着していたが、一部を除いてそれらは第三ターミナルに移っている。
第三ターミナル
2015年に第二ターミナルに隣接して設置された、LCC専用のターミナル(ジェットスター、バニラエアなど。ただしPeachは第一ターミナル発着)。
LCC用ターミナルという事で、ラウンジがない代わりに24時間営業のフードコートがある(店舗は夜間営業休止)、出発・到着客が同じフロアを通行したり少数のスタッフがあちこちに移動してしまったりするので床が陸上トラックのように色分けされている、などの特徴を持つ。
貨物地区
貨物を取り扱う場所。成田空港は鮮魚の取扱金額がどの漁港よりも大きいため、成田漁港の異名を取る。
ビジネス機用スポット
国内の空港で初めてのビジネス機専用スポット。
エアポートレストハウス
成田空港敷地内にあるホテル。
長らく同空港敷地内唯一のホテルであった(現在は第二ターミナルビル内にカプセルホテルがテナントとして出店したため、"唯一"では無くなった)。
早朝便を利用する事がある場合はここで休息を取ろう。
機内食メーカーが経営を行っているためか食事に関しては一定の評価があり、また「ホテルで機内食を体験する」というプランも実施している。
アクセス
- JR東日本成田線(成田空港線) 成田空港駅(第一ターミナル)/空港第2ビル駅(第二ターミナル)
- 京成電鉄京成本線/成田スカイアクセス線 成田空港駅(第一ターミナル)/空港第2ビル駅(第二ターミナル)
- 京成電鉄東成田線/芝山鉄道線 東成田駅(第二ターミナル:地下通路で空港第2ビル駅に接続されている)
第三ターミナルに関しては、第二ターミナルから連絡通路を歩くか、空港内無料循環バスを利用するとよい。
成田空港あれこれ
Q LCCや長距離国際線などを利用するため深夜~早朝に空港を利用したい。深夜帯で待てる場所はあるの?
→第二ターミナル内にカプセルホテルがあります。
また、敷地内には「エアポートレストハウス」というホテルがあるほか、空港周辺のホテルからも早朝に送迎バスが出ています。
空港で直に待機する場合は、深夜帯には指定の入り口から出入りすることになります。
第三ターミナルを使う場合は、2階のフードコートがラウンジ代わりに使えます。
ただし、夜間はフードコート内の店舗は全部休止していますので念のため。
Q 空港内に24時間営業の店舗はあるの?
→第二ターミナル4階にセブンイレブンが、第三ターミナル2階にローソンがそれぞれ出店しています。ってかこの2店舗しか24時間営業していません(現状では)。
Q なんか駅の改札のところに検問所みたいなのがあるんだけど…
→成田空港はその歴史から、変な人の侵入を「お断りします」するために検問所が設けてありました。