「武士道は死狂ひなり。一人の殺害を数十人して仕かぬるもの」(『葉隠』より)
概要
日本における主に武士のあいだで誕生し発展していった倫理・道徳規範をなす思想であり、古来からの日本の思想を基盤にしつつ、時代によって新たに取り入れられた思想により内容が発展・変化していき、人により解釈が異なることもある。
基本的には神道の思想と仏教の思想が基盤となっており、仏教は禅の思想の影響が強いとされ、特に武家の人々を中心に信仰され彼らの心の拠り所となっていた、栄西を開祖とする臨済宗の思想からは、大きな影響を受けたとされる。
基本思想
日本では古来より、剣は神道における神事の儀式などにも用いられ、悪しきものを祓い断ち切る力があるとされてきており、神道において八百万の神の中には剣にまつわる神々が、武神・守護神として存在している。
古事記・日本書紀にある日本神話の時代には、布都御魂剣や天叢雲剣などの神剣・霊剣が存在し、それらを振るった須佐之男命・建御雷之男神・神武天皇・日本武尊など、剣にまつわる英雄の逸話が伝えられている。
そうした『剣』を携える武士は、古来より守護者と考えられていたとされ、現在も一部の神社では、刀を御守りとする御神刀として祀る習慣がある。
また、仏教においては、不動明王に代表されるように剣を持った仏が存在し、煩悩を断ち切るものとして扱われ、教義における根本をなす思想の一つである無常(諸行無常)が、武士道精神の中でも主柱の思想とされている。
例えば武士道においては、武士たちの命もまた無常とされ、特に戦乱の時代においては、今日(今の瞬間)の『生』は、明日(次の瞬間)には『死』に移ろう(変わっている)かもしれない状況であった経緯から、以降の時代においても悔いが残らぬよう一瞬たりともいい加減には生きず、常に死を覚悟しながら生きるべきとされていた。
これらのことから、一種の信仰と言ってもいい思想かもしれない。
中世の武士道
武士道という言葉が初出するのは戦国時代だが、武士として求められるあり方は、それより前から存在していて、鎌倉時代にはすでに形成されており、その大枠は、
・戦で功績を立て、生き残る。
・それにより、仕える主家や自分の一族(家来を含む)の発展に役立てる。
というあくまでも実利的なもので、もちろん、(短期的な)利益ばかりを重視し過ぎては成り立たないため、一所懸命に公正に働く、道義を守る事も大切にされ、民衆の評判を高める事にもつながっていた。
こうした鎌倉武士道が本来の武士道であるとする声もあり、源頼朝による鎌倉幕府の成立以来の先例や道理である、武家社会における慣習や道徳をもとに制定された『貞永式目(御成敗式目)』が、良い参考になるという。
「武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候」(朝倉宗滴)
「古き物語を聞ても、義を守りての滅亡と、義を捨てての栄花とは、天地各別にて候」(北条氏綱)
という対象的な言葉が伝わるが、兄や甥の下で、守護を排除してのし上がった新興の一族を支えていた宗滴(一族としての功績を上げるのが必要だが、個人で必要以上の人望を得るのは危険)と、当主ではあるが地域において新参者であった氏綱(味方を増やし生き残る事が最優先)の立場の違いもあるだろう。
当時の主従関係はあくまでも、主君の「御恩(社会的保証を与える)」と臣下の「奉公(仕える)」が揃っていないと成り立たない双務的なものであり、能力の無い暗君や民衆・臣下に害を与える暴君は、むしろ見捨てられて当然であった。江戸時代以降のように一方的な奉公を要求しても、
と返されるのがオチであっただろう。
宮本武蔵の手がけた『五輪書』に記された内容には、
「武士が歩む兵法の道とは、何事においても人より優れることが本道であり、一対一の斬りあいに勝ち、数人との斬りあいに勝ち、主君のため、自分のため名をあげて身を立てようと思うこと。これが兵法の徳である。」(『地の巻』より)
とあり、戦国武士道の傑作とされている。押井守氏は「逢仏殺仏」「活人剣」と言った外来語(漢字)がなく、大和言葉のみによるロジカルな構成を、「草稿だけで完成したものが出ない」「五輪の書は近世以降にできた言葉で、通常『兵法得道書』とか」などと言及しつつも称賛している。
ただ、いわゆる「バカ殿」は、江戸時代においてもなんだかんだで排除されるのが普通だったらしい(主君押込)。
駿河城御前試合のあれはっ!
近世の武士道
江戸時代には中世由来の敵討が制度化され、また切腹が確立した。
1615年の大阪夏の陣で豊臣氏が滅ぼされると、徳川幕府の絶対的な支配が確立し、戦国の世は完全に終焉を迎えた。天下泰平の時代となり戦争が起こらなくなると、導入された儒教思想に基づいた、武士という共同体の職業倫理であり道徳律でもある武士道が形作られていく。武士道は、「奉公とは「御恩」の対価である」とするような実利的なものから、名誉を何よりも重んじ、主君への絶対的な忠誠を要求するものへと変化していった。
ただ、あまりにも行跡の悪い、いわゆる「バカ殿」は、江戸時代においても家臣合議のうえ「主君押込」で排除される慣習もあった。
なお、上記の佐賀藩の山本常朝の「葉隠」は今でこそ知名度は高いが、江戸時代に知られていたのは佐賀鍋島藩の中で要職についている者の間だけであり、内容は行動と倫理を切り離すような近世風の武士道を否定するものである。また、藩主の側近であったという経歴と内容は強い関係があり、直接の主君に仕える事を最優先している。
「武士道と云ふは死ぬ事と見附けたり」
という有名な言葉があるが、これはあくまでも「死に物狂いで取り掛かれ」という意味であり、正しい判断により正しい行動を行えた時に避けられない死を迎えるのならともかく、無意味に死ぬ事は勧めていない。
確かに、「二つ二つの場にて早く死ぬ方に片附くばかり也」(二者択一なら早く死ぬ方を選べ)と続けているのだが、この節は「常住死身なりて居る時は武道に自由を得一生落度無く家職を仕果すべき也」と締めくくられている。「一生落ち度無く家職」、つまりその家が代々受け継ぐ職務をまっとうするのが目的であって、死ぬ事が目的では無いのである。
近代以降の武士道
近代に入ると、武士道の形はさらに変化する。
明治維新以降、新政府は武士階級の解体を行った。身分ではなく能力によって官位が決まる社会に移行することで、富国強兵を果たそうとしたのである。 不満を持った士族による反乱も相次いだが、どの反乱も鎮圧され、武士の時代は完全に終わりを告げる。
ところが、富国強兵の理念において、武士道精神は武士という特定階級を超えた国民道徳として持ち出され、より純粋なものとなって日本人に刻み込まれる形で再生させられる。
いわば「日本人はみなサムライである」と主張されるようになったのである。
武士階級は日本人のうち一割程度に過ぎなかったのだから、本当ならこの理屈はおかしい。といっても戦国時代までは、百姓が戦場にでて戦功をあげることは全く珍しくなかったので、広い意味では「日本人はみなサムライ」と言えるかもしれない。
この過程における、明治39年(1906年)以降において、『葉隠』の「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」の一節が過剰に強調され、日本の陸海軍において兵士が刺し違えてでも敵を倒し国を守ることを重んじる『玉砕』の体質が形作られていった。この辺にキリスト教的な精神があるとする説もある。
また、新渡戸稲造が外国人に日本人の道徳心について解りやすく解説するべく翻訳もされた名著『武士道』を執筆し、世界的なベストセラーとなり、民間では実際に仕事をする人(ビジネスマン)等に深く受け入れられる結果となり、実際に武士も成功して大企業等になったグループもあり、『士魂商才』と言う言葉が生まれた。
騎士道との対比
日本の武士道は、ヨーロッパの騎士道と対比されることがよくある。
主な違いとして、武士道の場合は名誉を、騎士道の場合は実利を重んじる傾向がある。
戦争において武士道では敵への降伏を拒否し自決あるいは死ぬまで戦うことがあるが、騎士道ではこれはありえない。勝利こそが自分や主君の名誉につながり、無駄死には名誉どころか不名誉にあたる。もちろん、勝利のためならば、自分の命など厭わない、というのが騎士の姿であった。
他に大きな違いを上げるなら、女性への扱いがある。武士道はあくまで男限定の思想であり、女性はそこに含まれていない。しかし騎士道は女性への愛が重要視され、女性を争いから守り、また女性には従うべきだという思想がある。とくにフランスにおいては、女性への愛は「主君」や「神」より上位にあるとさえ考えられた。
また、誕生の経緯にも違いがあり、上述の通り騎士道は戦乱の中、騎士の暴走を止めるために生まれたとされるものだが、武士道は逆に、平和な江戸時代に武士はどのように生きるべきか、という考えから発展していった。
関連イラスト
断じて違う。