概要
- 生誕:大永2年(1522年?)
- 死没:天正11年4月24日(1583年6月14日)
室町後期(戦国時代)から安土桃山時代に生きた戦国武将。若かりし頃から織田家に仕え、「鬼柴田」「かかれ柴田」「瓶割り柴田」などの異名を取った猛将として知られる。一方、意図こそ異なるものの秀吉に先んじて刀狩りを行うなど、為政者としても有能であったとされる。
生涯
前半生
出自は不明、尾張の武将である柴田勝義の子と言われるがはっきりしない。また生年についても大永6年(1526年)など諸説入り乱れている状態である。
若年の頃より、尾張にて急速に勢力を拡大しつつあった織田信秀に仕え重用された。その信秀が死去すると、信秀の子にあたる信勝(信長の弟)の家老となり、信秀の主筋であった織田信友と信長・信勝との間で繰り広げられた尾張国内の覇権争いでも武功を立てている。
しかし主君・信勝が次第に信長との対立姿勢を鮮明に打ち出す中で、勝家もまた林秀貞らと共に信勝を当主の座に据えようとするも、両者の激突は信長側の勝利に終わり、勝家らは土田御前(信長・信勝の生母)のとりなしによって辛うじて助命されるに至っている。
この敗戦を機に、勝家は信長の器量を認めるようになった一方で、主君である信勝は勝家ではなく新参者の津々木蔵人を重用。この事への遺恨から信勝による再度の謀反の企てを信長へと密告し、信勝を見限る格好となった。そしてこの密告を受けた信長は信勝を粛清し、跡目争いを収束させている。その際、勝家は信勝の遺児・津田信澄の養育を信長から任された。
信長家臣として
信勝の死後、信長の家臣となった勝家であるが、上記した経緯もあってか桶狭間の戦いや美濃斎藤氏との戦いなど、当初数年間は主要な合戦に参陣する事はなかったという。しかし永禄11年(1568年)、信長が足利義昭を奉じて上洛の途についたのを機に、勝家もそれに伴う畿内平定作戦の先鋒として重用されるようになり、その後も近江の浅井長政との抗争や「信長包囲網」との戦いを始め、織田軍の有力な武将として主要な戦いの殆どに参加、数々の武功を上げている。
天正3年(1575年)には、越前49万石と北ノ庄城が信長より与えられ、さらに翌年には北陸方面軍の指揮を一任されるまでになった。この後、勝家は与力としてつけられた前田利家や佐々成政らと共に、加賀平定に従事するようになる。
その勝家の前に立ち塞がったのが越後の雄・上杉謙信であった。天正5年(1577年)に加賀への進出を図った上杉軍と、勝家率いる北陸方面軍は能登・七尾城を巡って干戈を交えるも、羽柴秀吉の戦線離脱などで足並みが乱れていた上、七尾城も救援が間に合わず上杉軍の手に落ち、さらに已む無く退却に及んだところを上杉軍の急襲により大損害を受けるなど、勝家にとっては惨憺たる結果に終わった(手取川の戦い)。
ところが翌年に謙信が急死し、上杉家中で内紛が発生(御館の乱)が発生すると、上杉軍もそれまでのような積極的な攻勢に出られる状態にはなくなった。上杉氏などと同様に、長らく敵対関係にあった石山本願寺も信長と和睦を結んだ事も追い風となり、天正8年(1580年)に入ると北陸方面軍は再び攻勢に転じ、同年の内に加賀を平定するとさらに能登・越中にも勢力を広げていく。またこの頃、織田家中の重鎮であった佐久間信盛が追放されたのに伴い、勝家は織田氏の筆頭家老として、名実ともに枢要な地位を確立するに至っている。
清州会議
天正10年(1582年)、勝家率いる北陸方面軍は越中の上杉方の拠点・魚津城の攻囲に乗り出し、3か月に亘る戦いの末これを陥落せしめた。しかしその魚津城が落城したのは6月3日、その前日に発生した本能寺の変により、主君・信長が横死した直後の事であった。
勝家らがその事実を知ったのはさらに数日後の6月6日の事で、これにより北陸方面軍は北ノ庄城まで引き上げ、大坂にて四国攻めに備えていた織田信孝や丹羽長秀らと連携の上、信長を討った明智光秀への弔い合戦を挑む計画を立てた。
しかし上杉側による妨害工作もあり、実際に北陸方面軍が近江へ発ったのはそれから10日以上後になっての事であり、その途上で羽柴秀吉率いる中国方面軍が光秀を討ち果たしたという報せに接する事となった。
光秀は倒れたとはいえ、信長と嫡男・信忠亡き後の織田氏を誰が率いるか、そしてその遺領をどのように配分するか、この二点を中心に勝家を始めとする主だった家臣の間で討議が行われる事となった。世に言う「清州会議」である。
この時、勝家は信長の三男で関係も深かった信孝を後継者として推し、対して秀吉が信長の嫡孫・三法師(織田秀信)を擁して対立、同席していた丹羽長秀や池田恒興が最終的に秀吉に与した事で、三法師の家督擁立が決したとされている。しかし実際のところは勝家も含め、会議に参加した重臣達の間では三法師の家督擁立は既定路線であり、清州会議にて話し合われたのはあくまで「三法師を支える体制」についてであったと見る向きもある。
また領地の再配分については勝家の希望に沿う形で北近江の三郡、そして秀吉の旧領であった長浜城を得る形となった一方、石高の上では河内・山城を加増された秀吉が勝家を逆転し、光秀討伐の立役者である事も追い風となって織田家中での立場においても、勝家が秀吉に取って代わられる格好となった。
ちなみに、この会議をきっかけに勝家は信長の妹・お市と再婚している。かつては信孝の仲介によるものとされてきたこの再婚であるが、一方で会議の結果に対する勝家の不満を抑えるべく、秀吉の計らいにより再婚に向けた動きが進められた、とも見られている。
賤ヶ岳の戦い
清州会議を経て長秀や恒興、それに三法師傅役の堀秀政と組んで秀吉が織田家中での発言権を増大していく中、これに反発した信孝や滝川一益らは勝家を頼って秀吉への対抗姿勢を打ち出し、織田家中は二分される形となった。
そして天正11年(1583年)3月、雪解けを待って出兵した勝家と秀吉は遂に北近江にて雌雄を決する事となる。当初は両軍睨み合いのまま戦況は推移していったが、4月半ばになると岐阜にて信孝が、さらに伊勢では滝川一益も再挙に及び、ここに至って羽柴軍は三方に敵を抱える状況を迎えた。
羽柴軍は信孝と相対すべく美濃方面へ転進、それに伴って主力の大半が近江を離れたのを好機と見た勝家は、羽柴方の諸砦への攻撃を開始、一時は柴田軍が優位に立つ事となった。しかし勝家の命を無視して配下の佐久間盛政率いる軍勢が深追いを続けた結果、丹羽長秀らの軍勢によって打ち破られ賤ヶ岳砦の確保に失敗。さらにこの時、大垣城にあった秀吉がわずか四半日足らずで美濃から近江まで取って返し、翌朝には羽柴軍と柴田軍との間で激戦が繰り広げられた。
そんな激戦の最中、勝家側についていた前田利家や金森長近らの軍勢が突如戦線離脱に及ぶ。秀吉は前もって利家らとも交渉に及び、彼らを自陣営に引き込んでいたのである。これにより前線にて奮戦していた佐久間勢のみならず、柴田軍全体の士気も一気に挫かれ、戦線を支えきれなくなった柴田軍は北ノ庄城への退却を余儀なくされたのである。
北ノ庄城に戻った勝家であったが、程なく利家を先鋒とした軍勢によって城は包囲され、勝家らの進退はここに窮まる事となった。命運尽きたのを悟った勝家は、お市の連れ子である浅井三姉妹を秀吉のもとへ送り届け、城内にてお市とともに自害した。本能寺の変、そして清州会議からわずかに1年と経たぬうちの無念の最期であった。
勝家の死に伴い、実子の勝里や養子の勝政らも処刑・消息不明となるなど、一時は断たれたかに見えた柴田氏の系譜であるが、勝政の嫡男に当たる柴田勝重は北ノ庄城陥落の折に密かに逃され、長じて徳川家康に仕え上野や武蔵に所領を与えられ、この勝重の子孫が幕末に至るまで柴田氏の家名を保つ事となった。また勝重が養祖父・勝家より与えられた愛用の兜は自領の一つである上仙川村(現・東京都三鷹市)にて祀られたという。
人物
武辺者のイメージが強い柴田勝家だが、温情ある人柄の持ち主でもあったようで、賤ヶ岳の戦いでの敗戦の折には離反した部下たちへの恨み言を述べなかった一方、最後まで付き従って来た家臣達には生き延びる事を許したと伝わっている。前田利家に対しても同様の逸話が残されており、北ノ庄城へ撤退する途上で利家の籠る府中城に立ち寄った際、彼に対し「秀吉とは親友であるから必ず下るように」と諭し、数年来の骨折りに感謝するなど、戦国武将としては人に対して多少寛容すぎる側面を持っていたようである。最終的に敵対した秀吉に対しても、合戦中に救援を出したりと清州会議までの関係はそれほど悪いものではなかったとも言われている。
ルイス・フロイスの評では、「信長の重臣の将軍の1人」「信長の時代の日本において最も武勇に優れた」「禅宗だが他の宗教を敵視しなかった」とある。宗教政策に寛容だったようで、キリスト教の宣教師に対して「キリスト教は禁止もしないし奨励もしない。教えが広まるかはお主らの努力次第だ」と述べていたという。
辞世の句
「夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山郭公 (やまほととぎす)」
この句に対して、妻のお市は、
「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 夢路をさそふ郭公かな」
と詠んだという。
創作
柴田勝家(信長の野望)
戦闘に関するパラメーターは高い。
最近のシリーズでは政治や知略も平均以上と、武勇一辺倒ではない。
柴田勝家(戦国無双シリーズ)
柴田勝家(戦国BASARA)
CV:岡本信彦
武器:逆刃薙
4で初登場。
織田信長の家臣。以前に画策した謀反が失敗に終わり、未だ地位が低く、信長からは冷遇される。
しかし武勇・知略の双方に長けた武将で、剣豪でもある。
詳しくは「柴田勝家(戦国BASARA)」参照。
柴田勝家(決戦Ⅲ)
CV:立木文彦
一本気で義理堅い猛将という設定。
最初は信長のことを「うつけを装う真のうつけ」と軽蔑していたが、
やがて信長の器を知りその家臣として活躍する。
この作品の勝家と秀吉のやりとりは他の作品とは違い結構おだやか・・・な方。
柴田勝家(戦国ランス)
戦国とはパラレルな関係にある鬼畜王ランスでも登場、どちらにも織田家武将である。
どちらの勝家もロリコン趣味である。戦国~では同僚の乱丸に惚れられているが、
彼からすれば対象外だが、乱丸は戦災孤児の幼女を養子にすることで、
結婚することに成功する。ちなみに合法ロリも対象外という筋金入りである。
戦力としては攻撃より防御面に秀でた足軽部隊として重宝するなど、
見た目や言動は猛将だが、一般的な勝家のイメージとはまるで違うと言って良い。
柴田勝家(戦国大戦)
CV:弦徳
赤髭の猛将として描かれている。コストは3で武力9、統率力8で特技は攻城持ちと、「鬼柴田」の名に恥じぬ能力値である。
固有の陣計略である「掛かれ柴田」を持つ。陣を発動した自分自身が敵陣目指して強制的に一直線に進んでしまうようになるデメリットを持っているものの、範囲内の味方の武力を大きく上昇させる事が出来る為、大抵のぶつかり合いでは負ける事は無い。
そのデメリットゆえ、自陣の防衛は不向きであるものの、攻めで力を発揮する勇猛さと武骨な性格が表現された味わい深いカード。
『掛かれ、掛かれいっ! 邪魔する者はなぎ倒せっ!』
柴田勝家(殿といっしょ)
筋骨隆々の巨体に鬼のような強面で、怪力を誇る猛将。
若い頃は信長の弟・織田信行のシンパだったが、お市を可愛がっていることを平手政秀に見抜かれ、信長陣営に何度も勧誘される。
信長が尾張を統一した後も腹心として仕えるが、お市が浅井家に嫁いだ際には意気消沈し青鬼のようになっていた。
柴田勝家(信長の忍びシリーズ)
「『勝家殿は秀吉に負ける』・・・思っていませんか?分かっています秀吉が織田家を乗っ取るつももりなら先ほどの拙者のような微温い考えでは勝つのは難しいでしょうそれでも拙者は昔 確かに信長様と皆が見た・・・夢の続きをできるだけ同じ形で見たい!! 甘いと言われようが拙者の命はそのためだけにあるのです!!」
CV:大川透
織田家に古くから仕える筆頭家老。こちらでもお市バカぶりは変わらず、秀吉共々浅井家輿入れの時には玉手箱を開けたかの如く老衰していた。
年が近い森可成とは仲が良く、彼が戦死したことを言伝に聞いた時には涙していた。
柴田勝家(織田信奈の野望)
CV:生天目仁美
通称「六」。大柄で巨乳な姫武将。
詳細は柴田勝家(織田信奈の野望)を参照。
柴田勝家(ラヴヘブン)
乙女パズルゲームの攻略キャラクター。初期レアリティはRでの登場。
異世界の危機を救うため、主人公により召喚された。
戦国時代、織田信長に仕えていた武将。その忠義は厚く、それゆえに主を愚弄する者には鬼の如き形相を見せる。見た目より器用で、茶を点てる事も出来る。(ゲーム内プロフィールより引用)
柴田勝家(Fate/GrandOrder)
NPCエネミーとして、期間限定イベント「オール信長総進撃 ぐだぐだファイナル本能寺2019」に登場。
魔王信長軍にバーサーカークラスの英霊として召喚され、主人公たち上杉軍を牽制すべく襲撃する。
狂化術式のせいか意思疎通は不能だが、単騎で複数のサーヴァントと互角の戦いを演じる剛力を発揮した。
ストーリー終了後の挑戦クエストでもボスキャラに抜擢されている。
その他
織田家重臣という立場の関係上、織田家や戦国時代を取り扱う大河ドラマなど時代劇にも数多く出演している。