概要
自称とも呼ぶ。数の概念を持つ以前から「自分のみを指す場合」と「自分を含む複数人を指す場合」で表現を変える言語は多く、アイデンティティの根幹に関わる概念の一つとされる。
日本語は特に種類が豊富な言語とされており、その場の状況や話し相手、気分や嗜好などによって複数を使い分ける事が普通であった。反面、英語の「I」や中国語の「我」のような汎用性の高い語が無く、性別や立場等によって選択肢に暗黙の了解があるという煩雑さもある。とは言え、そうした感覚が庶民にまで広く共有されるのは明治以降の事であり、江戸時代以前には「俺」が老若男女問わず広く使われるといった光景も見られた。
近代教育が普及して以降矯正の対象となり、いわゆる「標準語」と共に男子は「ぼく」・女子は「わたし」の使用が徹底されるといった整理統合が進んでいった。
幼少期より自分が何者であるのかを叩き込む事は、従来な身分制度に代わる「男子と女子」「大人と子供」といった属性に基づく序立ての第一歩だったのである。
また、日本語では創作物における「キャラ立て」を由来とする「役割語」が発達しており、それと結び付く事で次第に庶民レベルでもステレオタイプ化が進んでいった。一人称の使い分けは、次第に「個性の主張」から「社会的マナー」に変化したと言える。
『吾輩は猫である』はそうした感覚を逆手に取った、一種の「シュール」や「倒錯」として大流行した例であるが、そのような用法や叙述トリックの一環として以外には、創作物中においても「非常識な」一人称は敬遠されるようになっていった。
日本人がこのような状況から脱却するのは、戦後サブカルチャーの発展を待たなければならず、それらとて日常会話に用いれば「二次元と三次元の区別が付かない痛い子」と見做されかねない状況が今尚続いているのである。
なお、日本語では一人称と二人称の混同がしばしば起きる事も特徴で、罵倒語としての「てめえ」や「ワレ」はそれぞれ元々「手前」「我」という正式な自称表現であったほか、現在でも関西圏を中心に「自分」が一人称としても二人称としても通用する例が見られる。また、いわゆる「ぶりっ子」の女子を中心に、自身の名前やあだ名をそのまま一人称として用いる例も少数ながら見られる。
フィクション作品では、そのキャラクターがどのような一人称を用いるのかはその設定の重要な要素になるため、キャラ紹介の解説では「一人称は…」というのは、ほとんどテンプレのように用いられる記述である。
しかし、ただでさえ現実の一人称ですら多いのにアニメや漫画ともなると「現実では使われないひねった一人称」も多い。
そのため二次創作で一人称を間違える(関西弁キャラだからといってウチ、ショタキャラだからといってボクなど)とにわか判定されてしまうので、にわか判定機になる側面もある。
海外の日本アニメ愛好家や翻訳担当者が特に解釈に頭を抱える点であり、SNSや掲示板ではよく議論や研究のネタになっている。
日本の主な一人称
- 私/ワタシ(わたし)
- 私(わたくし)
- わたくしめ
- あたし/アタシ/あてぃし
- あたい/あてぇ
- あっし/あーし
- あたくし
- あだす/わだす/わす
- 僕/ボク(ぼく、やつがれ)
- 僕ちゃん(ぼくちゃん)
- ぼくちん
- ぽっくん
- 俺/己(おれ)
- 俺様(おれさま)
- おれっち
- 俺ちゃん
- 自分(じぶん)
- 儂、私(わし)
- わい/わて/あて
- あちき
- あちし
- わっち
- うち
- わらわ
- 己等(おいら)
- 俺ら(おら)
- おい/おいどん
- 我輩/吾輩/我が輩/吾が輩(わがはい)
- 某(それがし)
- 拙者(せっしゃ)
- 拙僧(せっそう)
- 身共(みども)
- 朕(チン)
- 麻呂/麿(まろ)
- 我/吾(われ・わ)
- 余/予(ヨ)
- 小生(しょうせい)
- 手前
- ミー
- 「」(自分の名前)
- ()(一人称無し)
- 本官
- 当職弁護士、弁理士、司法書士などが使う。
派生系
- オデ(グラトニー・ラファエル・栗坊・エドワード・ウィーブル)
- ヴァターシ(エンポリオ・イワンコフ)
- わっし(ボルサリーノ)
- ワス(デカパン)
- アテクシ(凰蓮・ピエール・アルフォンゾ)
- くみ(牧野郁美)
- 水木サン(水木しげる)
- 観鳥さん(観鳥令)
- カイザー様(スーパータロム)
- 姫(白雪)
- オレ様チャン(エヌ・オキサイド)
- わえ(ヴリトラ(Fate))
- ワシちゃん(マスタード)
- ぼく様(薬子サヤ)
- ムー(イム様)
関連タグ
ラオウ(一人称のブレがネタとされた例)