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ウォルト・ディズニーの編集履歴

2023-08-12 10:22:58 バージョン

ウォルト・ディズニー

ゆめのくにのかみさま

アメリカのエンターテイナー、映画製作者にして、ディズニーグループの創始者。

概要

アメリカ合衆国の漫画家、アニメ製作者、映画監督、実業家。本名、ウォルター・イライアス・ディズニー(Walter Elias Disney)。アイルランド系アメリカ人として、1901年12月5日にイリノイ州シカゴに生まれた。


世界的なエンターテインメント企業である「ウォルト・ディズニー・カンパニー」の創設者。生涯の友人であったアブ・アイワークスととともに、その代表的アニメキャラクター「ミッキーマウス」を生み出した。


夢の国で知られるレジャー施設「ディズニーランド」を作ったのも彼の発案である。


アニメーション、芸能、映画、レジャーなど、おそらく20世紀における文化面で卓越した功績を挙げた人物と言える。

略歴

1920年、19歳の若さでアニメーションスタジオを創業。アブ・アイワークスをはじめとするアニメーターを呼び寄せ制作したオリジナルアニメは高い評価を呼ぶが、制作に没頭する余りに資金のやり繰りが乱雑になりスタジオは倒産してしまう。


ウォルトは兄のロイ・O・ディズニーと共にハリウッドで再起を目指し、1927年、ユニバーサル・ピクチャーズの配給で「しあわせウサギのオズワルド」を制作。子供の間で大ヒットを飛ばし、一躍ディズニー社躍進の切っ掛けを作った。


しかし、ユニバーサル社との仲介をした興行師チャールズ・B・ミンツが法外な配給手数料を支払う様に要求、ウォルトがこれを拒否すると露骨な社員への引き抜き工作を仕掛けた。アイワークス以外のアニメーターたちはこれに応じてしまい、ディズニー社は崩壊寸前の状態となる。


アイワークスとの二人三脚でディズニー再建に取り掛かったウォルトは、「ミッキーマウス」を生み出し新たな看板キャラクターに据える。初期作品において、秀逸な動きの描写をアイワークスが書き出す一方で、ウォルトは演出面で高い才能を発揮した。なお、初期の映画ではウォルト自身がミッキー・マウスの声優を演じていた。


対照的に、ウォルトの演出とアイワークスの作画を失ったオズワルドは次第に人気を失い、1930年代にはその人気を完全にミッキーに取って代わられる事になる。


1930年代に入り、アニメーション稼業を更に発展させるべく、音楽に重点を置いた「シリー・シンフォニー」シリーズ、その内の一作である世界初のカラーアニメーション「花と木」、主題歌「狼なんかこわくない」と共に大ヒットした「三匹の子ぶた」など、歴史的に重要な作品を連発した。

やがて、長編アニメーション映画への野心が芽生え、1934年に「白雪姫」の製作を始める。当時は前例のない未曾有の企画だったため、リスクが多すぎるとして周囲からは猛反対が起こったが、友人のチャールズ・チャップリンの協力もあり、製作期間3年を経て1937年に公開。映画史上初の長編アニメーション映画となった「白雪姫」は、数多くの賞賛と大ヒットを記録し、ディズニー・スタジオの名声を確固たるものにした。


だが、同時期に巻き起こっていた労働問題の波に呑まれ、他の企業と同様にディズニー・スタジオでもストライキが勃発する。当時の労働者の権利については旧式の考えのままだったウォルトはこれに憤慨し、組合潰しに全力を注ぎ、不当労働行為を繰り返した。しかし、当時の世論は労働者側に同情的であり、ディズニー作品のボイコット運動が起きるようになると流石のウォルトも折れ、労働者の賃上げを約束したことで1941年7月30日に収束した。ウォルトは後々までこのストライキについて「共産主義者による陰謀」と信じて疑わず、コミュニズムに対する嫌悪感を一層硬化させ、自身の非を一切認めようとしなかった。この一連の騒動による精神的打撃は相当だったようで、極度の鬱状態に陥ってしまったという。


この頃より、アメリカの負の歴史に大きく関与するようになってしまう。


ストライキで多くのスタッフを失い、長編製作のメドが立たなくなった折、アメリカが第二次世界大戦に参戦。それと同時にディズニー・スタジオは日本軍の攻撃に備える拠点として米軍に接収され、アニメーション製作に軍人が介入するようになり、プロパガンダ作品の製作を余儀なくされる。

当初ウォルトは大激怒していたが、このプロパガンダ製作には次第に熱心になっていったと当時のスタッフは振り返っている。戦争が激化するにつれて、国からの依頼ではなく自ら費用を負担して戦意高揚映画を製作するようになり、ディズニーと戦争は分かちがたい関係と化してしまった。


終戦後の1947年、プロパガンダ作品の乱発によって創造性を失ったウォルトはそれまで以上にアニメーションに関与しなくなり、赤狩りへと次なる情熱を向けて非米活動委員会の友好的証人として全面協力する。この際、ストライキに関与していたかつての仲間の名をあげ、そのプロダクションを間接的に閉鎖に追い込むなど、非常に卑劣なやり方で商売敵を潰している。

同年ついにミッキーの声優を自ら降板してしまい、周囲のスタッフからは「もうエンターテイナーではなくなってしまった」と落胆された。


映画産業を退いたウォルトだったが、新たな事業に目をつけ、再び注目されることになる。

1950年代、かねてより温めてきたテーマパークの建設を始め、世界各地の遊園地を視察しながら構想を練っていった。

更に、当時一般家庭に普及したばかりのテレビの可能性を考慮し、局と結託して特別番組やテレビシリーズの製作を始める。特に1955年に放送を開始した「ミッキー・マウス・クラブ」は、視聴率50%超えの大ヒットを記録、社会現象となった。こうして、映画のみに留まらないメディア・ミックス戦略でも大きな成功を収め、ウォルトは完全復活を遂げた。

そしてついにカリフォルニア州アナハイムにて、自らの名を冠したテーマパークであるディズニーランドを開設し、現在まで続く多面的な経営の基盤を作った。


晩年に突然映画界に舞い戻り、これまでのキャリアの集大成的映画「メリー・ポピンズ」を製作。1964年に公開された本作は、死の間際にウォルトが再びアーティストとして回帰した最後の作品であり、彼の生涯における最高傑作のひとつとして迎えられた。

1966年12月15日に肺炎の為死去。享年65歳。


論争

かつて本人がそう公言したように、ウォルト自身は決して清廉潔白な聖人君子だったわけではなく、生涯を通してあらゆるスキャンダルに関与しており、存命中から数多くの批判にさらされてきた。その内容も、ウォルトが実際に犯したものだったり、誤解と偏見による捏造だったりと様々であり、現在でも議論が絶えない。


ウォルトは会社に関しては「お互いに助け合う家族のような関係」を目指しており、自身のことも気さくに呼び捨てで接するように呼びかけていた。しかし、作画を行わなくなった後もクレジットの「作画」の部分に自身の名前を載せたり、ファンにミッキーの絵を求められるとスタッフに描かせてサインだけ自分でするなどといった横暴な言動からスタッフの不満を買い、ストライキの発端を生み出してしまうこともあった。

ただし、スタジオの労働条件への配慮を怠っていたわけでは決してなく、兄の目を盗んで勝手にスタッフの給料を上げたりするなど、彼なりにスタッフに対する想いは強かったようである。ウォルトの娘は「パパはみなを大切にした。使っている人が病気ではないか、なにが必要なのか知りたがった。みなの私生活に気を配っていた」と語っている。

対照的に、晩年はスタッフに対して冷淡な態度を取るようになっていった。ウォルトは「無用の長物は刈り取らなければいけない」として、苦楽を共にした仲間達を尽く解雇するようになった。非常に信頼していた部下のウォード・キンボールはウォルトの指示に異議を唱えたために解雇され、膝を屈して懇願した末に屈辱的な条件で再雇用されている。古参アニメーターのフレッド・ムーアが解雇された直後に交通事故で急死した際は葬儀にも参列しなかった(ウォルトは葬式の類を極端に嫌っており、一番上の兄ハーバートの葬式にさえ出席しなかったという)。


ジョン・フォードフランク・キャプラアルフレッド・ヒッチコックといった多くの映画人達と同様、ウォルトもまた第二次世界大戦プロパガンダに手を染めていたことで知られる。ドナルドダック主演の「総統の顔」など、プロパガンダであることを認めた上で公開されている作品も一部あるが、東京大空襲前に制作された「空軍力の勝利」では、日本への爆撃を促す内容のために非公開となっている(ただしパブリックドメインなので視聴自体は可能)。

こうした戦意高揚映画を自らの意志で夢中になって製作してきた事実は、ウォルト自身、引いてはディズニー社全体にとって生涯残る恥部として歴史に刻まれることとなってしまった。


終戦後は赤狩りの急先鋒を自認し、1947年10月の公聴会で証言台に立ち、共産主義者とみなす従業員を告発した。ウォルトの共産主義に対する凄まじい嫌悪は、この頃には既に全米に知れ渡っていた。

こうした姿勢の背景についてウォルト自身が語ったところによると、少年時代にアイルランド人の少年グループから暴行を受けたが、その父親達が民主党の組織に参加し、社会主義者のウォルトの父を馬鹿にしたためだという。


右派で保守主義を自認する一方で、政治的信条の欠如を指摘されることもある。ウォルトの政治的立場は生涯混沌としており、1936年の大統領選挙ではルーズべルトに投票した一方で、1940年には共和党を支持している。また、この当時共和党陣営から推薦を求められたが、ウォルトは「昔からわたしは政治というゲームがまったくわからない。だから自分のものでもない声明文に名前を貸すよりは、完全な沈黙を守ったほうがいいと考えてきた」と推薦の依頼を拒否したという。

アニメーターのジョー・グラントは「ストライキの前、ウォルトは、平等で公正な社会を目指すには、皆が団結すべきだと考えていた。ある時期、彼は極端にリベラルだった」と述べている(「ウォルト・ディズニーの思い出」より)。

1960年代には共和党に多額の寄付を行い、熱心に応援していたが、1965年には「去年はちょっと政治を試してみたが、大して面白くはなかった」と語っている。

このように、ウォルトは政治に一切の関わりも持たなかったわけではないが、公式の場で国の問題を話題にすることはあまりなく、政治についても基本的には無関心だった。


また、ウォルトは極度の人種差別主義者だったと痛烈に非難されることが多々あるが、これに関しては事実に反するものが大半で、関係者から否定されることも多い。


ウォルトは赤狩りに協力していた頃、「アメリカの理想を防衛する映画連盟」に在籍していたが、反共主義者ではあったものの、反ユダヤ主義者ではなかったとされている。実際スタジオにはユダヤ人も何人か雇われており、ウォルト自身ユダヤ系の慈善団体に定期的に寄付を行っていた。

ユダヤ人脚本家のモーリス・ラフは「ウォルトは非常に保守的だが、反ユダヤではない」と明言しており、スタッフの一人ハリー・タイトラも就職した時に、自身にユダヤの血が半分混じっていると漏らしたが、ウォルトは「全部ユダヤの血だったら、どれほどよかったか」と冗談を言ったと述べている。

娘のダイアン・ディズニー・ミラーのインタビューによれば、彼女の妹がユダヤ人男性と交際していた際、父であるウォルトは誇らしげな様子だったという。


ディズニー作品の歴史上特に黒人差別的だと非難された「南部の唄」でも、ウォルトは主演のジェームズ・バスケットに対してアカデミー賞の授与を支持していた。ウォルトは本作の製作にあたって、黒人に対する偏見を抑えようと細部にまで気を配り、黒人の出演者からも「とても丁重にもてなしてくれた」と後に好意的に語られている。

また、スタジオ初の黒人アニメーターのフロイド・ノーマンも、ウォルトには差別的な行為は見られず、人種を問わず多くの人々に対し模範的な姿勢だったと述べている。

晩年にもルイ・アームストロングにディズニーソングのカバーアルバムの製作を依頼しており、同作にはウォルトがルイにミッキーマウスの像を贈る写真が掲載されている。


ウォルトが白人至上主義者だったという批判は事実無根の出まかせと中傷がほとんどだが、「ファンタジア」などの諸作品において人種に対する配慮が欠落していたことがあったのは事実である。伝記作家ニール・ゲイブラーは、著書「創造の狂気 ウォルト・ディズニー」の中で「ウォルト・ディズニーは決して人種差別主義者ではなかった。公私にわたって黒人を侮辱する発言をしたこともないし、白人の優越感をひけらかすこともなかった。しかし当時の白人にありがちのように、人種的に鈍感なところがあった」と述べている。


人物

敬愛していた人物はエイブラハム・リンカーンチャールズ・チャップリン。元々俳優志望だったウォルトは、リンカーンの演説を暗唱して校長から気に入られたり、地元のチャップリン物真似コンテストで優勝するなど、幼少期よりエンターテイナーとして頭角を現していた。


4歳の頃、家族揃って引っ越したミズーリマーセリーンの農園で5年近く過ごしたことから、自然や動植物を愛しており、よく田園の風景を夢中で描いていたという。このマーセリーンの暮らしがウォルトの人間形成の基盤となり、「人生に影響を与えた出来事はすべてマーセリーンで経験した」と述べるほど、自身の生涯のルーツとなった。


子ども好きであり、子どもと同じ目線で演技指導をすることを心がけていた。本人も少年の心を忘れない人物と評されることがある。


大の鉄道マニアとしても知られている。マーセリーンで生活していた頃から蒸気機関車に憧れており、機関士だった叔父が線路を通る度に線路脇まで走って手を振っていた。1948年には自宅に鉄道のレールを敷いて機関車を運転し、客人をもてなしていたという。


性格は明るく楽天的であり、どんな苦境に立たされても諦めないポジティブ精神の持ち主だった。このような前向きで貪欲な姿勢が「誰もやっていなかったこと」を求めた結果得た功績に繋がっている。

ただし、これはあくまで表向きの顔であり、素のウォルトは非常にネガティブで内向的な人物だったことが度々語られている。また、本人の発言から、世界でのイメージと実像とのギャップに悩んでいたことも考えられている。ウォールストリートジャーナルによれば、ウォルトは友人の一人に対し、こう述べたとされる。


「私はウォルト・ディズニーではない。ウォルト・ディズニーならやらないことの数々を私は行っている。ウォルト・ディズニーは煙草を吸わなければ酒も飲まないが、私はいずれにも手を染めている」


尤も、生涯を通してこのような性格だったわけではない。初期の短編や映画「白雪姫」を製作していた頃の若かりしウォルトは野心に満ち溢れた情熱的な男であり、「黒く見えるほどのダークブラウンで燃えるような深い目をしていた」と称されている。

ウォルトの性格が暗い方向に変化していき、世間から批判の声が強まっていったのは、戦後から晩年にかけてのことであり、アニメーションへの関心が薄れていった時期である。1959年の「眠れる森の美女」の主演声優マリー・コスタは、当時のウォルトについて「ソケットに差しこんだように薄く浅い色の目だった」と以前の彼とは真逆の印象を語っている。


良くも悪くも非常に気まぐれな性格であり、あまり本性を明かさなかったことで知られていた。長らく共に働いてきたスタッフからは「非常に理解しにくい人物だった」「最後には彼のことがますますわからなくなった」「二日として同じ人物ではない」と言われるほど、複雑な人物だったという。実の甥のロイ・E・ディズニーでさえ「一部屋に40人が集まっているとして、ウォルトとはどんな人物か、それぞれ紙に書けと言われれば、40人の違ったウォルトが登場することになるだろう」と語っている。

最晩年に一度だけ会ったことのある手塚治虫は当初の印象について「ちっとも愉快そうな顔をしていなかった」と述べている(「徹子の部屋」より)。手塚がある話題を紹介すると、ウォルトは手塚の顔をじっと見た後、途端に嬉しそうに喋りだしたという。

功績

製作手法

プロデューサーとして知られているウォルトだが、資金の管理以外でも、深く映画作りに関わっていた。

自身の能力に限界を感じて作画と演出を降板して以降、アニメーターの1人が開発したストーリーボードを用いてスタッフ全員で話し合い、多くのアイデアを出しながら物語を展開していくという方法を取っていた。この方法は、現在の映画界では当たり前のように使われているが、初めて導入したのがディズニー・スタジオだといわれている。

作品製作に妥協は許さず、長期間かけて描いたシーンも容赦なく破棄するなど、納得がいくまで表現を求め続けたという。

ストーリー会議の際は、スタッフ達の前でウォルトがたった1人ですべてのキャラクターを、最初から最後まで演じ切り、それをスタッフがアニメーションという形で表現するという、極めてエキセントリックなスタイルで行われた。当初は俳優に憧れていただけあってかウォルトの演技力は相当優れていたと伝えられており、当時のスタッフからは「彼はいい俳優かコメディアンになれたかもしれない」「いろんな役を誰よりもうまく演じてみせた」と評されている。

アニメーター育成

アニメーターの教育システムの確立もまた、ディズニーの重要な業績のひとつとして知られている。1932年、ウォルトは自身の要望を理解し、実現する人材を得るために、スタッフの提案でディズニー美術学校を発足した。さらに1961年カリフォルニア芸術大学設立の際も多大な援助を行い、同校からはジョン・ラセターを始めとした多くの才人が輩出された。

技術革新

最新技術に対する姿勢も非常に積極的だった。トーキー映画が話題になっていた1920年代末期、全編音楽と効果音を流し、動物のキャラクターを人間の声で喋らせた「蒸気船ウィリー」や、当初は経費がかかるだけで商業的価値がないと見放されていた総天然色での製作が行われた「花と木」、1932年に実現した当時から興味を抱いていたステレオ録音技術を初めて導入した「ファンタジア」など、多くの作品にその革新性が見られる。

メディア展開

1936年までの間、ディズニー・スタジオの支援社だったユナイテッド・アーティスツが将来のテレビ放映権を保持することを主張したのに対し、当時まだテレビが家庭に普及していないにもかかわらず、放映権を渡したくなかったために契約を打ち切ったことから、テレビ時代の到来を予見していた先見の明であったといわれている。

ウォルトはこの時からテレビの可能性に注目し、1947年には全ての役員室にテレビを置き、放映権の保有に固執した。映画界では「テレビのせいで人々は映画館に行かなくなる」と敵視されていたが、そんな中ウォルトは「新しい映画の観客層を開拓するために、その可能性を積極的に活用していく」と主張し、新作映画の宣伝やテレビ放送など、現在主流となっているタイアップの多くを確立した。

テーマパーク

史上最も有名なテーマパークであるディズニーランドの建設にあたり、ウォルトは各地の遊園地を研究し、本格的なテーマを持ったアミューズメントパークという、前代未聞の企画を実現させた。パークの専門家ではなく、航空機工事の関係者を呼び寄せたり、オーディオアニマトロニクスを導入するなど、それまでにない画期的な発想を用いて建設に携わっていた。


評価

若手時代から死後に至るまで、彼をめぐる評価は様々である。


ウォルトは古き良きアメリカへの愛を様々な形で語っていたことから、しばしば「名作をアメリカ流に改悪した」と批判されることがある(こうした批判は主にイギリスの文学を原作とした「ふしぎの国のアリス」、「くまのプーさん」などの作品について見受けられる)。


また、左翼を自認していたオーソン・ウェルズはウォルトの右翼思想に対して強い反感を覚えており、ウォルト自身に対しても拒絶していたと伝えられている。冷戦初期、ウォルトは非米活動委員会に加担していたの対し、ウェルズは要注意人物としてブラックリストに載せられており、両者の立場は相反の関係にあった。

一方でウェルズは、ウォルト本人についてはさておき、彼が製作に深く関わっていたアニメ映画に関しては敬愛していた。参照


チャールズ・チャップリンは早い段階からウォルトの才覚を見抜いており、1932年の初対面時に「君はもっと伸びる。君の分野を完全に制服する時が必ず来る」と伝えている。


初期のディズニー映画に多大な影響を受けたことを公言しているスティーブン・スピルバーグは、2016年に「ウォルト・ディズニーが僕にもたらしてくれたことは2つある。1つは誰よりも僕を怖がらせたことで、もう1つはその恐怖から救ってくれたことだ」「映画を通して、自立した強い女性の美徳を世間に伝えた」と語っている。参照


アカデミー賞においては59回のノミネートと22回の受賞を果たしており、個人としての史上最多記録を現在でも保持し続けている。


手塚治虫は生涯尊敬する映画人に、チャップリンと共にウォルトの名前を挙げている。


大塚康生はディズニー・スタジオの製作手法について、アニメージュ文庫「長靴をはいた猫」の後書きでこう説明している。

「作画陣個々の創造力を引き出すことには大きな可能性をもっていますが、一歩誤ればたしかに出来はいいがバラバラな作品になる可能性もあわせてもっているといえましょう。この危険を避けるために全員が作品のすみずみまで理解し、自分の担当する部分だけを考えることのないようにライカリールを作ったり、意見交換やアイディア競争・テストなどをくりかえし行わなければならず、予算とスケジュールは厖大なものになってしまいます」

大塚はウォルトを、こうした手法の頂点にあって最終判断者として君臨していたと評した。


リアルサウンドテックによれば高畑勲は日本のディズニーを目指したアニメーション作家を公言していたという。2004年7月29日のほぼ日刊イトイ新聞では、「優れた才能を集めてイメージを伝え、その能力を過酷なまでに、実に見事に引き出した」と評している。また、「絵を描かないアニメーション作家」として、ウォルトと共通する部分を感じていた高畑は、「彼が『絵を描かない』と決めた判断力はすごかった、とぼくは思います。なぜならそのことによって、ディズニー自身が『自分で描いていることの狭さ』から脱出できたのですから」として、ウォルトの姿勢に敬意を表明しており、「なぜ絵も描かないのにアニメ監督をやっているのか」という周囲の質問に対し、いつも「ディズニーという人もそうなんです」と返すようになったという。


富野由悠季は「『手描きの絵であれだけ動かすことができる』という意味においての根気とそういうシステムを構築したディズニーというプロデューサーには大変優れた能力があると思った」と語っており参照宮崎駿もまた「非常にすぐれたプロデューサーだった」と高く評価している。参照


関連人物

チャールズ・チャップリン

喜劇王」の名で知られる映画監督。ウォルトにとって幼少期からのヒーローであり師匠。映画製作やパーク建設において、多大な影響を受けたことで知られている。1956年のインタビューにて「私はチャップリンのすべてのギャグを真似した。彼の映画は、ただの一本も見逃したことはなかった」と熱弁している。

チャップリンもまた、ディズニー映画のファンであり、ウォルトの才能を高く評価し、数多くのアドバイスを授けた。1932年に初めて出会い、以降2人は親友となる。「白雪姫」製作時は周囲から反対の嵐だったが、唯一ウォルトを後押したのもチャップリンである。チャップリンは当時「モダン・タイムス」を配給した際の資料一式を参考用に提供し、その後も「『白雪姫』について君のことを過小評価させてはいけない。この作品は君の最大のヒット作になる」と激励し続け、言葉通り映画が大成功を収めた後にウォルトから感謝の手紙を送られている。

ウォルトのストライキ騒動への対応にチャップリンがショックを受けて以来、2人が対面することはなくなってしまったが、ウォルトの方は晩年までチャップリンを恩師として慕っており、チャップリンもまた、未完の映画「フリーク」製作時に「メリー・ポピンズ」を参考にするなど、両者の関係が完全に途絶えることはなかった。

アブ・アイワークス

ウォルトの長年のパートナー。ミッキーマウスを世界で初めて描いた人物として知られている。1919年にカンザスシティの広告会社にて出会った。入社の際、採用試験として自身の名前のレタリング文字を4通り描いたウォルトは、先に入社していたアイワークスにどれが一番良いか尋ねたところ、「ウォルト・ディズニーだ」と答えられたため、この時初めて現在知られる自身の名を名乗ることになる。その後、共にしあわせウサギのオズワルドミッキーマウスを製作し、黎明期のアニメ界に名を馳せるコンビとして知られるようになる。ウォルトはアイワークスの才能について高く評価しており、「ニューヨーク中のアニメーターが彼のアニメーションに脱帽するだろうとアブに伝えてくれ」と書かれた手紙を妻リリアンに送っている。一時は喧嘩別れもしていたが、ウォルトが亡くなるまで常に彼を支え続けていた。

リリアン・ディズニー

ウォルトの妻。一般には彼女こそがミッキーマウスの名付け親だとされている。1924年1月19日にディズニー・ブラザーズ社に入社し、ウォルトと出会う。当初は年下のウォルトに対して、特に関心を寄せなかったが、仕事終わりに車で送ってもらう内にお互いに特別な感情を抱くようになり、交流を深めていった後に1925年7月13日に結婚した。しかし、夫婦の間には緊張も孕んでおり、汽車やディズニーランドに没頭する夫についてゆけず、喧嘩ばかりしていたという。娘のダイアンは「それは健康的な喧嘩だった。わたしたちの家族には隠し事はなく、家族はだれも我慢したり耐えたりすることができない。なにかいらいらすることがあれば、すぐ爆発してしまう。そしていつも母が最初につっかかっていた」と述懐している。気苦労の絶えない結婚生活だったが、ウォルト自身は女性絡みの不貞は決して犯しておらず、リリアンも晩年になって「ふたりで過ごした素晴らしい生活はかけがえのないものだった」と振り返っている。

ロイ・O・ディズニー

ウォルトの実兄。1923年12月に「ディズニー・ブラザーズ社」を設立し、マネージャー役を買って出た。その後の1926年2月、「弟の影となって支える」というロイの意向から、「ウォルト・ディズニー・スタジオ社」に名称を変更し、財政面で大きく貢献した。資金不足の中、銀行と交渉を重ね、映画製作やディズニーランド建設に向けて奔走し、亡くなるまで献身的な援助を行ったことからウォルトは晩年までロイを慕い続けていた。

かつてディズニーの幹部を務めていたロイ・E・ディズニーは彼の息子にあたる。

クラレンス・ナッシュ

ドナルドダックの声を半世紀に渡って演じ続けた声優。牛乳配達員として働いていた1932年のある日、偶然通りかかったディズニー・スタジオにて、動物の鳴き真似の名人を求めているという噂を聞き、オーディションを受ける。ナッシュによる動物の鳴き真似を聞いたウォルトは「これこそ僕達が探していたアヒルの声だ!」と感銘を受け、ドナルドの造形に繋がったという。参照

1934年6月9日公開の「かしこいメンドリ」で初めてドナルドの声を担当し、同年にミッキー役のウォルトと10年以上に渡って共演し、以降も数多くのディズニー映画に動物の鳴き声を提供した。参照

フライシャー兄弟

マックス・フライシャーデイブ・フライシャーより成り立つアニメーターコンビ。1921年にフライシャー・スタジオを立ち上げ、ベティ・ブープポパイスーパーマンなどを発表したことで有名。ディズニー・スタジオ最大のライバルとして知られ、活動当時はお互いに影響を受け合っていた。ウォルト達も若手時代はフライシャー兄弟のアニメーションに憧れを抱いていたという。

ディズニー・スタジオのスタッフがストライキを起こしていたのと時を同じくして、フライシャー・スタジオも同様の騒動に巻き込まれて大打撃を負った。その数年後、社運を賭けた長編アニメーション映画「バッタ君町に行く」を発表するも、公開2日後に真珠湾攻撃が起こってしまい、太平洋戦争が勃発。それに伴い興行は打ち切りとなり、1942年5月にスタジオは倒産してしまった。

ウォルトとフライシャーの死後、1988年の映画「ロジャー・ラビット」にて、ミッキーマウスベティ・ブープらがゲスト出演を果たし、両社のコラボレーションが実現した。

トム・ハンクス

アメリカの俳優。2013年の映画「ウォルト・ディズニーの約束」でウォルトを演じた。ハンクスは役を引き受けた際、「ピカソチャップリンと同じく世界に影響を与えた人物を演じる機会」だと考えたという。ウォルトについては「彼の想像力はエンターテイメントに大きな変革をもたらした」「金儲けに無頓着ではなかったものの、基本的にはあくまでストーリーテラーでありフィルムメーカーだったという点でかなり特殊な存在だった」と語っている。参照

親交の深いエマ・トンプソンによると、ハンクスは以前からウォルトに対し憧れを抱いており、彼に関する知識も豊富だったという。また、親しみやすい雰囲気やカリスマ性など、二人の間には共通点が多いとも述べている。参照

この他にもハンクスは、ピクサーの「トイ・ストーリー」シリーズでウッディ・プライドの声優を担当していることでも知られている。

手塚治虫

日本の漫画家。幼少期からディズニーやフライシャーのアニメーションに多大な影響を受けたことを度々公言しており、ウォルトを大先生と呼んで尊敬している。手塚は「ディズニー狂い」を自称し、初期の「アリス・コメディ」シリーズから晩年の「メリー・ポピンズ」に至るまで、ウォルトの作品群を敬愛している。

1964年、手塚はニューヨークでウォルトと念願の対面を果たした。手塚はウォルトに「日本から来ました。『アストロ・ボーイ(鉄腕アトムのアメリカでの名前)』を作っています」と告げると「『アストロ・ボーイ』?知っています。良い作品です。これからの子ども達は宇宙に眼を向けなければならない。わたしも、ああいうものを手がけてみたいと思っています」と返されたと「手塚治虫ー僕はマンガ家」に記している。その時のウォルトの印象について、1967年に「頭から後光がさしているようだった」と述懐している。


担当声優

彼の声を吹き替えた担当声優は以下の通り。


余談

  • アリス・コメディ」の本格的なシリーズ拡大の頃には自身の力量不足からプロデューサーに専念しているが、最初期の頃は作画、演出及び撮影を全て一人でこなしていた。
  • 本人は熱心な読書家ではなかったが、製作作品の多くは、マーク・トウェインジョーエル・チャンドラー・ハリスルイス・キャロルなど、若き日のウォルトが親しんでいた文豪達の作品を原作としている。
  • 自他共に認めるへビースモーカーだったが、煙草を吸う姿を公の場には決して見せなかった。これは若者に悪影響を与えるのを防ぐのと、自らのイメージを崩さないためであった。
  • 欧米では「死後遺体が冷凍保存されている」という有名な都市伝説があるが、もちろんこれは嘘であり、実際には火葬され、遺灰はカリフォルニア州に埋葬された。
  • ディズニーランド内でのお気に入りのドリンクは「ミントジュレップ」であり、よく片手に持ちながらパークを散策していたという。

参考文献

  • ニール・ゲイブラー「創造の狂気 ウォルト・ディズニー」(2006年)ダイヤモンド社

同著に記載された出典リンク

  • 大野裕之「ディズニーとチャップリン エンタメビジネスを生んだ巨人」(2021年)光文社新書

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ディズニー


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