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フランス史の編集履歴

2024-08-22 15:26:23 バージョン

フランス史

ふらんすし

フランスの歴史について解説する

古代〜中世前期

現代にいうフランスの地には紀元前7世紀から紀元前6世紀にケルト人が移住し、ローマ人はこの地域をガリア・タランスアルピナ(アルプス山脈の向こうのガリアという意味)と命名した。その後ガリア地方はユリウス・カエサルにより平定されローマ帝国の属州となった。5世紀にはフランク族が侵入してフランク王国を建設し、キリスト教に改宗したメロヴィング家のクローヴィス1世が初代のフランク王として即位する。形式上は、ここからフランスの歴史が始まったとされる。後にメロヴィング王家は分裂衰退し王統はカロリング家に移る。


英雄 シャルルマーニュ

カロリング朝を開いたピピン3世(小ピピン)の子シャルルマーニュ(カール1世)は、ゲルマニア・北イタリア・フランス・ヒスパニア北部に跨がる大帝国を成立させる。時のローマ教皇はこれを追認し、シャルルマーニュに「西ローマ皇帝」の位を授けた。これがフランス、ドイツ両国の源流となる。


843年8月に締結されたヴェルダン条約によってフランク王国は分裂し、後のフランス地域は西フランク王国の主要地域となっていく。やがてカロリング家は衰退し、ノルマン人との戦いで台頭したロベール家と西フランク王位を選挙で争う事になる。カロリング家が断絶し、ロベール家のパリ伯ユーグ・カペーが王位に選出されてその子孫が王位を占めるこの時代以降を歴史学的にはフランス王国と呼んでいる。ただし同時代ではカペー朝の国王はあくまでもクローヴィス1世の後継者たるフランク王を名乗り、カール大帝の後継者を自認し神聖ローマ皇帝を名乗ったドイツ王と正統性を競った。また王権は本拠地パリ周辺の王領を支配するに過ぎず、フランス各地には王領を遥かに上回る領土を誇る多くの大領主が乱立していた。


中世中期から中世後期

主な大領主としては、1066年10月以降はイングランド王も兼ねるようになっていたノルマンディー・半独立状態にあったブルターニュ・ローマ帝国の影響を色濃く残したトゥールーズ・王家に近いながらも神聖ローマ帝国との間で時に王権も揺るがしたブルゴーニュなどが挙げられる。特にノルマンディー公は、イングランドに加えて中部のアンジューや南部のアキテーヌをも相続で手に入れ、一時は一諸侯でありながらフランス全土を上回る巨大な封土を手にした。これをルイ9世やフィリップ2世が武力やキリスト教宗派の改宗などの手段によって、まず北部諸公と「オクシタニア」と呼ばれていた南部を取り込んで徐々に王権を強化していく。

最大領主であるイングランド王との対立は、1337年11月に百年戦争となって噴出した。一時はイングランド側が、フランス北部とアキテーヌの大半を押さえ、イングランド王がフランス王を自称するというところまで侵攻した。しかしジャンヌ・ダルクの活躍にイングランド国王の急死などの偶然も重なり、時のヴァロア王家はブルゴーニュ公と同盟を結んで国内のイングランド勢力を一掃した。

この余波で国内に残された大貴族も衰退し、王権はより強大となった。ブルゴーニュのみは王権との同盟を利用してさらに勢力を強め、一時はブルゴーニュ公国という独立国にまで成長するが、15世紀には公国がスイスに敗れた好機を生かしフランス王はブルゴーニュ征服に成功する。


近世からフランス革命まで

1517年10月のマルティン・ルターによる宗教改革の後に始まった宗教戦争を経て、ブルボン家がフランスの国王家となる。この頃には王国に分裂をもたらすような大領主もいなくなり、ヨーロッパ諸国の中でもフランス王国は中央集権化が進んだ屈指の強国となった。1661年3月にルイ14世のもとで絶対王政の全盛期を迎え、北や東に領土を広げ植民地も拡大してヨーロッパ世界の政治文化の盟主的役割を果たした。しかし度重なる戦争に伴う出費・課税・貴族の免税特権などで財政は悪化し、社会的不公平も増大した。


1789年5月にフランス革命が勃発し、1793年1月に国王のルイ16世が処刑されてフランス王国は一時滅亡した。しかし周辺の諸王国は一連の武力革命を警戒し、成立したフランス共和国に軍事侵攻する事態が発生した。この混乱はヨーロッパのほぼ全土を巻き込み、ナポレオン戦争までのの約20年間続く事になる。


フランス王国軍の軍人であったナポレオン・ボナパルトは、革命の混乱とフランスに攻め入った大陸諸国への反転攻勢に成功し、ボナパルト朝フランス皇帝ナポレオン1世として即位した。

第一聯隊、前へ!!

ナポレオン1世は、幾多の勝利により欧州大陸の大半を征服し、ナショナリズム自由主義自然権思想といったフランス革命の成果を諸国に広めた。しかし彼が鼓舞したナショナリズムの思想によって、諸国の人民がフランス支配に対して蜂起する。ナポレオンはロシア帝国遠征の失敗を機に敗北を重ね、最終的には退位して大西洋上の孤島セントヘレナ島で没した。


近代

1815年11月のナポレオン1世の失脚後は、ルイ18世などのブルボン家による復古王政が開始される。しかしシャルル10世の治世には革命以前の反動的な政策が行われた為、1830年7月に7月革命が勃発して自由主義的なオルレアン朝が成立した。オルレアン朝のルイ・フィリップ1世は自由主義的で資本家や中産階級等に支持されたが、富の格差化が進んでいた中で低所得者層が反発し、1848年2月の2月革命によって海外へ亡命した。

その後社会主義勢力と農民勢力が対立した第2共和政に移行するが、ナポレオン1世の甥で初代大統領となっていたルイ・ナポレオンがクーデターを起こし、1852年12月にナポレオン3世としてフランス皇帝に即位した。ナポレオン3世の権威主義的統治のもと、フランスは工業化と本格的な帝国主義外交に乗り出して世界各地に侵出し、幕末日本にも影響力を及ぼそうとした。しかしビスマルクが指導するプロイセンとの普仏戦争に敗北し、パリはプロイセン軍に占領される。捕虜となったルイ・ナポレオンは1870年9月に退位と亡命を余儀無くされた。


政府の弱腰な姿勢に怒ったパリの労働者たちは自治政府パリ・コミューンを築くが、ヴェルサイユに逃れた政府軍がプロイセンとの講和をまとめると、パリにとって返し、コミューン参加者を一方的に殲滅する。こうしてパリを回復した共和派は、農民、ブルジョワ、王党派からの支持も得ることに成功し、第3共和政を形成した。1940年6月まで第3共和政は続き、不安定な政治情勢ながらベル・エポック良き時代)と呼ばれる束の間の平和と繁栄を謳歌する。


第一次世界大戦ではドイツ帝国側の侵攻をかろうじて防いだが、戦地に駆り出された若者を中心に140万人近い未曾有の死亡者を出す。戦後のパリ講和会議でフランスは対独復讐に基づく強硬姿勢を譲らず、対独講和条約であるベルサイユ条約では、「天文学的」と称される莫大な賠償金がドイツに課された。フランスによる過酷な賠償金取り立てと、ドイツの賠償金不払いを理由にしたルール占領などによるドイツ側の遺恨は、ナチス・ドイツ台頭の遠因の一つとなる。


第二次世界大戦ではナチス・ドイツによる電撃戦を許してフランスは降伏し、第3共和政は事実上のドイツ傀儡政権であるヴィシー政権を生み出して幕を閉じた。


現代のフランスへ

連合国軍の反転攻勢によってフランス本土が解放されると、シャルル・ド・ゴール将軍らの指導によって第4共和政が成立した。第二次世界大戦の終結後はアメリカの支援を受けつつ、交通や金融などの国有化を伴う市場経済を展開して「栄光の三十年間」と呼ばれる高度経済成長を達成する。また再び海外の植民地の統治に乗り出すが、各地で独立運動が激化して一部の小さな地域を除いて大部分を失ってしまう。権益の崩壊に危機感を覚えた植民者は駐留軍と共にアルジェリアで反乱を起こし、鎮圧に失敗した第4共和政は引退していたド・ゴールに事態収拾を依頼するまでに追い込まれた。

こうして政界に復帰したド・ゴールによって大統領権限が大幅に強化された第5共和政が成立する。ド・ゴールはフランスの国際的地位向上を優先し、積極的に独立を支援する代わりに旧植民地をフランスの友好勢力にしようとする。アメリカ依存を脱却して核兵器を保有し、西欧諸国との経済相互依存を進めた。これらド・ゴールの立場をゴーリズムと呼び、その後のフランスの基本スタンスとなる。


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