概要
1893年6月に豊橋銀行専務の加治千萬人ほか16名が宝飯郡下地町(現:豊橋市)から牛久保町(現:豊川市)を経て豊川町(現:豊川市)に至る全長約4マイル(約6.4km)の鉄道敷設を請願したのが発端。当初の構想では軌間762mmの軽便鉄道で、起点は豊橋駅ではなく豊川を挟んで対岸にあたる現在の下地駅周辺であった。
これは豊川の架橋費用を削減するためと全長の短さから官設鉄道と接続する必要性が薄かったためとされる。
ところが競願者の御油鉄道が現れたことからそれに対抗するため路線計画を南設楽郡新城町(現:新城市)まで延伸し、豊川町より国府町に至る支線を追加した。
1894年1月の第3回鉄道会議で審議されたが、そこにさらに東三鉄道が申請され会議は紛糾。両社とも却下されてしまった。
同年4月に東三鉄道は他の勢力と合同し豊橋駅から新城を経由し南設楽郡海老村(後の鳳来町、現在の新城市)に至る路線を再申請。豊川鉄道と一部区間が重複することから豊川鉄道は抗議し第4回鉄道会議で審議に掛けられた。
最終的に豊川鉄道が認められ、軌間を1067mm、路線をさらに南設楽郡信楽村大字大海まで延伸するという条件が提示された。
豊川の架橋費用のため資本金は当初の5万円から50万円に増額し、1896年12月から工事が開始。ほとんど平坦な路線でトンネルもないため1897年7月15日に豊橋駅~豊川駅間が開業。その1週間後の7月22日には一ノ宮駅、1898年4月25日に新城駅まで順調に開通し、1900年9月23日に長篠駅までの全線が開通した。
しかし建設費の増大により巨額の借入金を抱えており、さらには1900年6月から株の買い占め騒動が起きるなど経営は不安定であり、1910年には経理部長が相場に手を出して32000円を使い込む不正が発覚。親戚である専務取締役支配人西川由次が私財を投じて損害を補償した後辞任した。
この株の買い占め騒動に東京海上が関与していたことで、豊川鉄道は事実上東京海上の支配下にあったとされる。
取締役会長の末延道成は西川の後任に北越鉄道(後の信越本線)時代の部下である倉田藤四郎を迎えた。倉田は減資を断行し不良債権を整理、荷札の針金一本をも無駄にしない節約を推進し、ホームでニワトリを飼育していた。
従業員の賃金も抑制されたため1919年にはストライキも発生したが、倉田は年功に応じて株式を分配する形で収めた。
これにより経営は徐々に上向いていき、大正8年下期には2割4分の高配当を実現させた。
1920年には更なる業務拡大を図り1899年12月に申請したが実現せず1904年に仮免状を返納した三河川合駅への延伸計画を再開、1921年9月1日に本社内に鳳来寺鉄道が設立された。
1923年2月に鳳来寺鉄道が開通。湯谷駅にホテルと温泉施設を併設し電車の往復割引や温泉の無料開放を行うなど集客に力を入れた。
1925年7月に全線が電化された。
一方このころ愛知電気鉄道が豊橋方面への路線延伸を目指して豊川鉄道との提携を試みていた。
豊川鉄道に打撃を与えかねないとして倉田はなかなか首を縦に振らなかったが、愛知電気鉄道の藍川清成社長は御油から豊川に直進するルートを打ち出した。
豊橋市当局や財界は豊橋市を経由しないルートに動揺。再三協議した結果豊川鉄道は妥協し、小坂井駅から豊川駅への乗り入れを認め、愛知電気鉄道が線路を増設して豊川鉄道と共用することになった。
現在の飯田線と名鉄の共用区間はこうして誕生したのである。
1927年2月に田口鉄道、1928年12月に三信鉄道が設立。順調に拡大を進めていたが1930年下期に不況により大幅な減収。旅客回復を目的に1931年に長山駅周辺に長山遊園地を建設、園内でイベントを開催した。
お座敷列車や臨時特急の運行なども行われ、旅客減少に歯止めをかけたものの収益は回復しなかった。
倉田は三信鉄道の株式払込金に充てるために社債を独断で発行したとして問題視され、その責任を取る形で辞任した。
その後は役員が大株主の東京派閥で占められるようになったことから役員と従業員の対立が激化。幾度となくサボタージュが発生し警察が介入、さらには役員と株主まで対立するなど事態は混沌を極めた。
こうした状態からついに東京海上は経営から手を引き、1938年4月に名古屋鉄道に株式を譲渡。同年12月に鳳来寺鉄道と共に名鉄グループの傘下に入った。
1937年8月に三信鉄道が全通するが、建設費の増大により運賃も増大。1939年から長野県の沿線自治体を中心に国有化運動が始まり、第74・75回帝国議会で4私鉄の買収建議案が可決される。
多額の公債発行が必要となるためその時点では見送られたが、1942年12月の第25回鉄道会議で買収案が可決され、1943年8月に鉄道省飯田線として国有化。バス事業も豊橋乗合自動車に譲渡した。
1944年3月1日付で名古屋鉄道に法人が合併される形で消滅した。
保有車両
蒸気機関車
開業時には鉄道作業局B3・B4形に相当するタンク式蒸気機関車機1形3両を保有していた。
1903年に1両を増備し計4両となったが、2号機は播丹鉄道(後の加古川線)に、3号機は名古屋鉄道に譲渡されており国有化時点で残っていたのは2両だった。
2両とも国鉄では1280形と改称された。
電気機関車
3両を保有していたが3両とも平成まで生きながらえていた。
- デキ51
1925年にイギリスのイングリッシュ・エレクトリック社から輸入した電気機関車。
国鉄の同社製電気機関車が箱型だったのに対し凸型となっているのが特徴。いわゆるデッカー式電気機関車では国内唯一の凸型である。
製造時の形式名は「電機50」だったが1930年にデキ50に改称、1938年に鳳来寺鉄道の同型機が編入されたことでデキ51に改番している。
国有化に伴いED28へと改称。1959年に廃車となり遠州鉄道に譲渡された。
- デキ52
1927年に日本車輌(機械)と東洋電機製造(電気)で製造された電気機関車。
箱型電気機関車で田口鉄道デキ53は準同型機。
国有化に伴いED29へと改称。1959年に廃車となり岳南鉄道に譲渡された。
- デキ54
1944年に日本車輌(機械)と東洋電機製造(電気)で製造された電気機関車。
落成時点で国有化していたため豊川鉄道の機関車だった時期はない。
1952年にED30へ改称、1961年にED25に改称され、1963年に廃車となり伊豆急行に譲渡された。
1994年に伊豆急行でも廃車となり車籍のないまま長津田車両工場の入換機となったが、この際にナンバープレートを裏返したところED30の文字が出てきたため再びED30として扱われた。
2009年にデワ3043とともに解体された。
電車
国有化時点で20両を保有していた。
- モハ10形
1925年に日本車輌で5両が製造された電車。製造時はモハ1形を名乗った。
3扉ロングシート車で当初はいわゆるオヘソライトだった。
1938年にモハ10形に改称され、前照灯が屋根上に移設された。
国有化後も飯田線および田口鉄道で運用されたが、1949年に2両が廃車・解体。1951年までに全車廃車となった。いわゆる買収国電であるが国鉄での形式名は附番されなかった。
モハ13号が大井川鉄道、モハ14・15号が田口鉄道に譲渡された。
田口鉄道に譲渡されたモハ14号が道の駅したらに保存されている。
- モハ20形
1927年に2両が製造された電車。製造は川崎造船所、大阪鐵工所。
製造時はモハ21形を名乗ったが、1938年に鳳来寺鉄道の同型車が編入されモハ20形と改称された。
阪急電鉄600形、東急電鉄3150形の流れを汲む「川造形」の形態で、前面に貫通扉を備える。
モハ21は戦時買収直前の1943年に東上駅の停止信号を冒進した田口鉄道デキ53と江島駅付近で正面衝突事故を起こしている。
国有化後はモハ1600形へと改称された。
- モハ30形
1929年に3両が製造された電車。製造は日本車輌。
モハ20形と同型の川造形で、側扉が1003mmから1200mmに拡大されたのが相違点。
国有化後の1952年に宇部線に転出、1953年に福塩線に転出し、モハ1610形に改称された。
1956年に廃車となり、田口鉄道、大井川鉄道、三岐鉄道に譲渡された。田口鉄道では原番号ではなく新たにモハ38と附番され、1968年の田口線廃止後は渥美線に転属、モ1712として1988年まで活躍した。
- モハ80形
1927年に2両が製造された電車。製造は大阪鐵工所。
モハ20形と準同型で当初は三等郵便荷物合造車のサハユニ200形であった。
1930年に電装されモハユニ201形と改称。1938年の三信鉄道全通に伴い荷物輸送を同社デニ201形に一任することとなったため全室客室に改造、モハ80形となった。半室が郵便荷物室だった名残で変則的な窓配置が特徴だった。
また当初は両運転台車だったがクハ100形と編成を組むため片運転台に改造された。
国有化後の1948年に両運転台に再改造され、1950年に機器類を国鉄型のものに交換。末期はモハ1620形に改称され可部線で活躍した。
1956年に廃車となり三岐鉄道に譲渡された。
- クハ60形
1927年に2両が製造された電車。製造は川崎造船所。
モハ20形と同型で当初は附22形を名乗ったが、1937年に制御機器が搭載されクハ60形に改称された。
当初は両運転台だったが国有化後の1948年にモハ80形に機器類を供出する形で片運転台化。1950年に辰野向きから豊橋向きに方向転換した。
末期はクハ5600形に改称され福塩線で活躍した。
1959年までに全車廃車となりそれぞれ三岐鉄道と総武流山電鉄に譲渡された。
- クハ100形
メイン画像の車両。1940年に2両が製造された。製造は木南車輌製造。
木南車輌特有の半流線型スタイルの車両で、沿線住民からも新型車両と注目されたという。
2扉セミクロスシート車で転換クロスシートも備えていた。
両運転台の電動車として設計されたが時局から電装はされず辰野向きの片運転台の制御車として製造された。
モハ80形と編成を組んで運用されたが、1942年に固定編成を解消。両運転台化されたもののモーターは搭載されなかった。
1943年にモハ21とデキ53が江島駅付近で正面衝突した際に豊橋側に連結されていたとされている。
国有化後の1952年にロングシート化され宇部線・小野田線に転属。末期はクハ5610形として福塩線で活躍していた。
1962年に廃車となり高松琴平電気鉄道に譲渡された。琴電では8000形と改称され、琴平向きの820は1964年に電動車化。
1981年の更新修繕で810のみ前照灯が2灯化され阪神電車のような外観となり前後で印象の異なる同型車で編成を組んだ。
1200形に置換えられる形で2003年に廃車となり、香川県内に保存されている。
- サハ1形
1922年に製造された木造客車を電車用に改造したもの。製造は日本車輌。
ホハ1形2両、ホロハ1形2両の計4両が改造された。
当初は車体前後にデッキを設けた形だったが、後に車体中央部2ヵ所に引き戸を新設。内装もオールクロスシートからセミクロスシートとなった。
当初は伊那電気鉄道の架線電圧が異なったことから直通列車に使用されていた。
国有化後も2両が天竜峡駅以北で使用されていたが、1950年に救援車に転用。ナヤ16960形として浜松機関区および沼津機関区に配置された。
1953年にナエ27000形に改称され、1965年までに全車廃車となった。