概要
設立
古くから発展した商工地帯でありながら、鉄道路線がなく公共交通の便に恵まれなかった知多半島西岸部と名古屋市を結ぶ知多電気鉄道計画が原点。
知多電気鉄道は地元大手電力会社である名古屋電灯の顧問弁護士だった藍川清成が中心となって立案され、熱田町(1907年に名古屋市に編入。現在の熱田区)より全線複線で呼続・鳴海・大高・横須賀を経由して常滑に至る計画だったが、免許申請が却下され実現しなかった。
藍川は当時の愛知県知事深海一三や名古屋電力の常務取締役だった兼松煕など地元政財界の要人に援助を要請。兼松から甲武鉄道(後の中央本線御茶ノ水駅~八王子駅間)の取締役を務めた岩田作兵衛を紹介された。
岩田は「甲州財閥」と称される山梨県出身の実業家のひとりで、「明治の鉄道王」雨宮敬次郎らとともに甲武鉄道、青梅鉄道(後の青梅線)、川越鉄道(後の西武鉄道)、京浜電気鉄道(後の京浜急行電鉄)など多くの私鉄運営に携わった人物である。
出生地が岐阜県稲葉郡下羽栗村(現:笠松町)であったことから岩田は藍川の要請を受諾。知多電気鉄道計画は建設費を削減することで採算が採れると判断し、計画を単線の電気軌道に変更。社名を知多電気軌道として1909年に発起人総会を開催した。
ところがこのころ行政側で軽便鉄道法の施行が計画されていたことから、同法の施行を機に特許出願を軌道条例による軌道線から軽便鉄道に変更。1910年11月21日に会社創立総会が開催された。
総会において将来的に知多半島から名古屋市を中心に愛知県南東部に広く展開することを念頭に社名を愛知電気鉄道(以下愛電)に変更することを決定。初代社長に岩田、取締役には兼松と元関西鉄道社長の田中新七ら6名、監査役に藍川が就任した。
会社創立後は熱田から常滑までの区間を4つの工区に分割して建設を開始。当初は自社で発電所を建設する計画だったが、名古屋電灯から電力供給を受ける形に変更した。
第1工区である熱田駅~名和村駅間は当初の呼続・鳴海・大高経由から常滑街道沿いに経路を変更。このために新たに用地買収が必要となったため同じく用地買収が難航している大野町駅~常滑駅間の第4工区ともども着工を後回しにし、残る伝馬町~大野町間の建設を優先することとした。
1912年2月18日に伝馬駅(→伝馬町駅)~大野町駅間が開通。暫定的な起点となった伝馬駅は名古屋電気鉄道市内線(→名古屋市電)熱田伝馬町停留場と接続し、名古屋電気鉄道と連絡する形になった。
3月3日に地元政財界の要人を招き開業祝賀会を開催。花火の打ち上げや奉納相撲が行われた。
営業成績も好調で、開業初日のみで2600人が利用したとされる。観光目的の団体需要から開業時に導入した電車だけでは賄いきれず、付随車を導入して2両編成での運行を開始した。
さらに熱田から先の東陽町(現:名古屋市中区東陽町)に至る東陽町線など4路線の敷設を計画。敷設免許を申請しつつ熱田・常滑各方面への延伸準備に取り掛かった。
熱田駅(神宮前駅)は東陽町線計画や国鉄との貨物列車の連帯運輸などの関係から東海道本線を乗り越えて東側に建設することとなったが、跨線橋の建設費が高かったことと用地買収に難航したことから跨線橋手前の秋葉前まで暫定的に延伸することとした。
1912年8月1日に秋葉前駅~伝馬町駅間が開業。これに先立つ1912年7月に用地買収が完了した大野町駅~常滑駅間の工事にも着工し、1913年3月29日に開通した。
これに伴い電車6両のほか貨車30両を導入した。
1913年2月に神宮前駅~秋葉前駅間の工事に着工。わずか0.6kmの区間であったが建設費は約23万円に上り、年間収益が20万円程度だった愛電にとっては社運をかけた大事業であった。
1913年8月31日に神宮前駅~秋葉前駅間が開通し当初の計画路線が全通した。
第一の経営危機
続いて前述の東陽町線のほか、有松・知立方面に至る有松線、尾張横須賀駅から分岐して知多郡半田町に至る半田線、常滑駅から知多郡内海町に至る内海線の4路線の敷設免許を申請。建設にかかる予定だったが経済不況に伴い新株の未払込金徴収が遅滞、借入金で賄って跨線橋を建設したものの建設費に見合うほどの路線収益を得られず4路線すべてを着工することは困難となった。
そこで名古屋電気鉄道など他事業者との調整に手間がかかる東陽町線の計画は休止し、地元住民から要望の高い有松線・半田線を優先することとした。
しかし名古屋市の旭遊郭移転問題に絡む疑獄事件に兼松ら取締役が関与していたとして兼松と常務取締役の安東敏之が詐欺罪で起訴されてしまう。
不況と会社に対する不信感から株価も急落。役員の大半が辞任したことから藍川ら3名が取締役に就任し立て直しを図った。
1914年には健康状態が悪化し出社もままならなくなった岩田社長が辞意を表明。協議の結果名古屋電灯の常務取締役だった福澤桃介を招聘することで合意した。
福澤の社長就任後は半田線の建設を中止、有松線の建設に注力することを決定した。
半田線はすでに測量を終えレールを敷設する直前に至っていたが、資金調達の見込みが全く立たなかったこと、鉄道院武豊線と競合するといった事情から沿線人口が多く収益が期待できる有松線を優先すべしという声が社内で大勢を占めたための判断だった。
しかし不況による経営悪化が進み自転車操業状態になり、有松線以外の3路線は免許失効により未成線となった。
その後は軽便鉄道補助法の「収益金が建設費の5%に満たない場合は補助金を交付する」に基づき補助金の給付を申請。1914年にこれが認められると株価が急騰。これを機に未払込株の払込を完了させるべく尽力した。
1915年9月に払込が完了し、役員報酬の全廃や社内余剰品の売却など経費削減に努めた結果、第一次世界大戦勃発による景気の急速な回復もあって経営危機を脱することができた。
このころに名古屋~豊橋間を結ぶ高速電気鉄道を計画する尾三電気鉄道の活動が活発になったことから、長らく棚上げになっていた有松線の建設を急ぐこととした。
有松線は当初4輪単車での運行を予定していたが、岡崎・豊橋方面への延伸を見越しボギー車での運行が可能となる規格に設計を改め1915年11月に着工。
元々地元住民から建設が望まれていたこと待って用地買収は順調に進み、1917年3月に神宮前駅~笠寺駅(現:本笠寺駅)間、5月には笠寺駅~有松裏駅(現:有松駅)間が開通し有松線が全通。
これに合わせて神宮前駅~常滑駅間に「常滑線」と路線名が定められた。
1916年夏には新愛知新聞社(後の中日新聞)と提携し購読者向けの優待乗車券を発行、常滑線沿線の海水浴場への旅客誘致を図った。
さらに貨物需要も急増し土管・土器類の出荷量が過去最大となり、貨車も急遽15両増備している。
1917年上半期を最後に補助金給付を返上、同年下半期には6%の株主配当を行うほど経営が改善した。
1917年6月に多忙を理由に福澤が社長を辞任。後任に藍川が推薦され藍川は3代目社長に就任した。
大都市近郊の大手私鉄に倣い経営の多角化も行われ、自動車事業や土地住宅開発事業にも着手。
輸送量の増強が求められた常滑線は複線化も予定されていたが、1919年10月に新舞子駅付近で列車同士の正面衝突事故が発生する。
この際の事故当該車両が5号車と15号車だったことから、以後愛電では下一桁5は欠番となった。
事故の原因が保安設備の不備に起因するものであったことから保安設備の改良が先行され、自動閉塞方式と二位色灯式信号機を常滑線全線に導入した。
常滑線は当初より複線分の用地を確保していたため複線化は順調に進み、合わせてレールを25~30kg軌条から37kg軌条に交換し重軌条化を進めた。
さらに名古屋港東岸部の埋立地開発を目的に築港線の建設が計画され、1924年1月に全線が開通した。
豊橋延伸
尾三電気鉄道に対抗するために建設が急がれた有松線であったが、その豊橋延伸は尾三電気鉄道の計画を引き継ぐ形で進められた。
御器所村(現:名古屋市昭和区)から下地町(現:豊橋市下地町)への敷設免許を取得した尾三電気鉄道は、創立委員長に愛電の社長でもあった福澤桃介を迎えていた。
同社は社名を東海道電気鉄道に改め、最終的には東京から大阪までを結ぶ長大な高速電気鉄道線の建設構想を抱いており、福澤が愛電の筆頭株主である名古屋電灯の社長を兼務していたこと、福澤と藍川の人的関係から構想実現の暁には両社が合併するとの観測までされていた。
しかし最大の資本提供者であった安田善次郎が1921年9月に暗殺されたことで資金繰りが行き詰まり、計画は頓挫してしまう。
東海道電気鉄道は愛電のほか同じく名古屋電灯が筆頭株主だった美濃電気軌道に救済合併を申し入れるが、美濃電気軌道には断られてしまい愛電が数度の交渉の末承諾。1922年7月8日に吸収合併した。
この時点で愛電は有松から知立を経由して矢作までの敷設免許を得ていたが、矢作から先は東海道電気鉄道が取得した敷設免許を継承して建設することとなった。
有松線の豊橋延伸計画「豊橋線」は矢作川付近までは東海道本線と並行するが、岡崎の市街地に到達してからは豊橋まで本宿・赤坂・国府と内陸寄りの集落を結ぶ旧東海道沿いの経路となった。
東海道本線のルートから外れた鳴海・知立・赤坂といった旧宿場町を中心に豊橋線計画は大いに歓迎された。
表定速度60km/h運転を想定し、愛電赤坂駅~平井信号所間約8kmを一直線にするなど全体的に直線の線形とし、勾配は知立以東で最大16.7‰とした。
レールはドイツから輸入した75ポンド(37kg級)レールを使用、矢作橋駅~東岡崎駅間は将来的に標準軌への改軌を念頭に軌道中心間隔を広く取り、三位色灯式自動信号機を設置するなど高規格路線として建設された。
豊橋線建設は1922年5月に開始。当初知立駅は三河鉄道(現:三河線)の駅(現:三河知立駅)に乗り入れる計画だったが、協議がまとまらず立体交差で接続し交差部付近に新知立駅(後の東知立駅。1968年廃止)を設置する形とした。
計画変更によって工事は遅れ、1923年4月1日に予定地西方に建設した新知立(仮)駅までが開通した。
6月に西岡崎駅(現:岡崎公園前駅)まで延伸し、8月8日に東岡崎駅まで開通。路線名を「岡崎線」とした。
さらに豊橋への延伸を図る中、御油町で分岐して牛久保町に至る仮称豊川線が新たに計画される。豊川稲荷への参拝客需要を見込んでの物だったが、経路選定が不透明だったことから東岡崎駅~御油駅間の建設を先行させることとした。
豊橋の吉田駅に関しては豊川鉄道と小坂井駅付近で合流し線路を共用することを計画。豊川鉄道側は当初難色を示したが、豊川線計画に豊橋の政財界が懸念を示したため協力することとなった。
経路が決まってからは建設は急ピッチで進められ、1926年4月1日に東岡崎駅~小坂井駅間が開通。豊川鉄道の豊川駅まで直通運転が実施されたほか、対面乗り換えによる豊橋方面への連絡運輸も行われた。
1927年6月1日に伊奈信号所~吉田駅間が開通。豊橋線が全通した。
これと同時に神宮前駅~吉田駅間に急行列車を設定、1往復のみ井戸田(1944年休止、1969年廃止)・東岡崎・伊奈の3駅のみ停車する特急列車を設定した。
特急は神宮前~吉田間を63分(表定速度59km/h)、急行は72分(表定速度52km/h)で結び、東海道本線普通列車が熱田~豊橋間で110分であるのに比較して大幅な所要時間の短縮を実現した。
この表定速度は当時の阪神急行電鉄(現:阪急電鉄)神戸線の51km/hを上回る日本国内の私鉄で最速記録を樹立している。
延伸工事と並行して複線化、軌道強化、架線電圧の昇圧を順次実施。岡崎線は1925年6月に神宮前駅~東岡崎駅間を直流600Vから1500Vに昇圧し、以後の延伸区間は開業時より直流1500Vとした。
複線化工事は小坂井延伸と同時に鳴海以東の全線が複線化され、1930年時点で神宮前駅~堀田駅間と笠寺駅~東笠寺駅間以外の全区間が複線化された。
さらに急曲線の改良工事なども行われ、1930年9月20日のダイヤ改正で特急の所要時分は60分、急行の所要時分は70分にそれぞれ短縮。さらに特急と同様の停車駅ながらも所要時分を57分(表定速度65.7km/h)に短縮した「超特急あさひ」が新設、最新のデハ3300形が充当された。
常滑線の複線化工事は1925年6月に柴田駅~名和村駅間の完成をもって両端部の神宮前駅~伝馬町駅間と大野町駅~常滑駅間を除く全区間が完了し、1929年1月に架線電圧を1500Vに昇圧している。
合併と子会社設立
豊橋線の延伸を進める1922年当時、幡豆郡西尾町(現:西尾市)より碧海郡明治村(1955年に安城市・碧南市・西尾市に分割)を経て愛電の宇頭駅に至る鉄道路線の計画が地元より持ち上がった。
愛電は資本金の5割を出資、起点を今村駅(現:新安城駅)に変更し1925年に碧海電気鉄道を設立した。社長は愛電の藍川が兼務し、本社も愛電の本社内に設置された。
1926年に今村駅~米津駅間が開通。架線電圧1500Vで開業し、そこからさらに平坂町、福地村を経由し一色町(現在はいずれも西尾市)に至る幡豆電気鉄道が計画されたが、岡崎新駅より西尾駅を経て吉良吉田駅に至る軽便鉄道西尾鉄道との合併を目指し碧海電気鉄道線の西尾駅への延伸に計画を変更した。
西尾鉄道は1910年に西三軌道として設立され、1916年2月までに岡崎新駅~吉良吉田駅間と西尾駅~港前駅間を開業させた。全線非電化、軌間762mmの軽便鉄道であり、蒸気機関車によって運行されていた。
1923年頃に動力近代化のため電化を計画したが、近隣で碧海電気鉄道が創業し三河鉄道も電化を推し進める中で施設の老朽化対策に追われて計画は停滞。路線は存続の危機に陥ってしまった。
1926年に愛電は西尾鉄道を合併、路線名を西尾線として電化・改軌工事に着手した。
岡崎線昇圧に伴い不要となった600V対応機器を転用し変電所を新設、西尾駅周辺は急曲線が存在したため西尾町の都市計画と連動し駅を移設して線形を改良した。
1928年9月に西尾駅~吉良吉田駅間と西尾駅~港前駅間の工事は完了し、10月には碧海電気鉄道が西尾駅に延伸。直通運転のため碧海電気鉄道線は直流600Vに降圧した。
西尾駅~岡崎新駅間も常滑線昇圧に伴い不要となった機器を流用して電化工事を実施、1929年に完了した。
さらに大正末期にはかつて計画されたが断念した半田線が地元有力者によって再度計画され、1926年11月20日太田川駅から知多半島東岸南部の河和に至る路線の敷設免許が交付された。
愛電は指導協力の要請を受諾する形で資本金300万円のうち100万円を引き受け、1927年11月に知多鉄道が発足した。こちらも社長は藍川が兼務し、愛電本社内に本社を設置した。
1931年4月1日に太田川駅~成岩駅間、1932年7月1日に成岩駅~河和口駅間が開通、直流1500V電化され常滑線と直通運転を行った。
幻の延伸計画
静岡県方面への更なる延伸も計画された。吉田駅より石巻・三ケ日を経由して気賀駅(後の気賀口駅)に至る路線を計画し1927年9月に発足した遠三鉄道の発起人として参加。気賀駅からは浜松鉄道(後の遠州鉄道奥山線)と接続し浜松駅を結ぶ計画で、愛電も気賀駅から静岡駅に至る路線の敷設免許を申請した。
しかし愛電の申請は却下され、遠三鉄道も経済不況の影響で着工に至らず、愛知電気鉄道は愛知県の東に出ることは叶わなかった。
三ヶ日駅~気賀駅間は後の二俣線(現:天竜浜名湖鉄道)と重複するが、予定されていた経路は二俣線と異なり浜名湖沿岸の都築・寸座を経由せずほぼ一直線に気賀に至っている。
1927年4月に名古屋市電が堀田まで開通したことに伴い、1928年4月に堀田駅を新設し特急停車駅とした。
愛電は自社路線による名古屋市中心部への乗り入れを企図し、熱田から金山を経由して中区西菅原町(現在の丸の内)に至る路線を計画した。
奇しくも同じような経路で名古屋鉄道(初代)も名古屋地下鉄道を計画しており、両社の計画は競合する形となった。
両社とも資本面が脆弱で却下される可能性が高かったこと、名古屋の二大私鉄を連絡し名古屋市の東西を直通する路線として利用者の利便性向上、両社の将来の発展につながるとして両社は共同出資して名古屋地下鉄道を設立する。
名古屋鉄道(初代)は起点駅を柳橋駅から名古屋駅に移転し、枇杷島橋駅付近から地下に至る新線を建設、途中に伏見町、栄町、上前津、別院前、沢上を経由して神宮前駅に至る計画であった。
しかし昭和恐慌により資金調達は難航、実現には至らなかった。
三河鉄道
現在でこそ細々としたローカル線で末端区間は廃止されている三河線であるが、その前身三河鉄道は愛電と競争関係にあった。
1927年に拳母町(現:豊田市)から名古屋市昭和区八事に至る路線を計画した新三河鉄道が設立されると、愛電も資本参加し路線免許を手中に収めた。
7月には岡崎市内に路線網を有した岡崎電気軌道を合併し、岡崎市より拳母町を経て名古屋市に至る路線を構想した。
しかし愛電が西尾周辺で路線網を構築する一方、三河鉄道線は営業成績が悪化、経済不況の影響もあって新三河鉄道の建設計画は凍結されてしまった。
そこで両社は対立を辞めて協調関係を築くこととし、愛電線の新知立駅~牛田駅間に分岐点(後の知立信号所。1984年廃止)を新設、貨物列車の相互直通運転を開始した。
さらに一ツ木駅から重原駅に至る連絡線の構想など協調関係が進み、ついに両社の合併構想まで持ち上がった。
1930年に両社の合併が承認されるが、事務手続きの途中で三河鉄道の保有資産に関する解釈を巡って両者の関係は悪化。協調関係は一転し合併も中止されてしまった。
第二の経営危機
愛電の路線網拡大の障壁ともなった昭和恐慌は愛電そのものの経営危機にもつながった。
大正末期までは好調だった営業成績も悪化し、借入金の利子支払いが大きな負担となった。
愛電は名岐鉄道(以下名岐)や乗合バス各社と提携し旅客誘致に努め、常滑線にビール列車を運行するなどイベントを開催した。
しかし業績の改善には至らず、給与削減や人員整理にまで追い込まれてしまった。
昭和恐慌が収まり景気が回復してくると営業成績は好転。給与削減も撤回され危機を脱することができた。
名古屋鉄道誕生へ
名古屋地下鉄道計画以来名岐と愛電は合併を計画しており、名古屋地下鉄道開通の暁には両社を合併する可能性もあった。
しかし名古屋地下鉄道計画は実現せず、1932年に両社に加え瀬戸電気鉄道、伊勢電気鉄道の4社を合併する計画も浮上したがこちらも実現には至らなかった。
その中で当時の鉄道大臣三土忠造によって1933年9月に設立された「内閣交通審議会」の審議により地域交通事業者の統合が国策として推進されることとなった。
名岐・愛電両社は合併して中京圏の基幹事業者となるべきとの結論に至ったが、この時点では両社は合併に消極的であった。
名岐は無借金経営だった一方、愛電は豊橋線建設の影響で多額の債務を抱えていた。
それを除けば経営規模と財務内容はほぼ同等であり、統合に関してはさまざまな困難が伴うことが予想された。
しかし名古屋市の財界を中心に合併を推進する動きが強まり、さらに国策として推進されるようになったことから両社ともに時流に逆らうことは困難と判断。当時の名古屋市長大岩勇夫らの斡旋を受け、愛電側は藍川が、名岐側は療養中の社長跡田直一に代わって取締役の神野金之助が代表となり、合併に関する交渉が行われた。
1935年1月に大岩市長より合併勧告を受け、両社ともに合併に合意。1月30日には合併裁定案の作成会議が行われた。
会議においては社長をどちら側から選出するかが焦点となり、名岐側は「自社が愛電を合併する」という立場を崩さず跡田を社長とすることを強く求めた。最終的に跡田が社長、藍川が副社長という形でまとまった。
存続会社は名岐、愛電は解散とし、合併比率1対1の対等合併、新会社の役員数は両社出身者ともに同数、愛電の保有資産は全て名岐に継承、愛電の従業員は待遇・報酬共に愛電在籍時の条件を維持し勤続年数も通算するという形で合意に至った。
ところが今度は合併後の社名で両社の意見は対立した。愛電側は「日本中部鉄道」、「中部日本鉄道」、「中部鉄道」などスケールの大きいものを主張したのに対し、名岐側は「名岐鉄道」または旧社名「名古屋鉄道」を主張。議論は平行線となったが、5月5日に社名を「名古屋鉄道」とすることを正式決定した。
1935年8月1日に両社は合併、愛知電気鉄道が解散し名岐鉄道は社名を名古屋鉄道に改めた。
社長に内定していた跡田は合併直前の7月17日に死去したため、藍川が社長に就任している。
合併後は旧愛知電気鉄道線が「東部線」、旧名岐鉄道線が「西部線」と総称された。
「東部線」は比較的直線区間が多く、37kgの重軌条を採用するなど高規格路線であり、後年の名鉄社内でも高い評価を得たとされる。
また合併後に「東部線」に導入された3400系は「愛電と名岐両社の車両設計の集大成」と評された。
路線
常滑線・豊橋線・築港線は本線系統、西尾線は支線として扱われていた。
業務代行路線
未成線
遠三鉄道計画と名古屋地下鉄道計画は「幻の延伸計画」の項参照。
- 名古屋市内線
1909年から1911年にかけて、名古屋市内に乗り入れる路面電車を申請している。すでに路面電車を運行している名古屋電気鉄道はこれに反発し、三河方面や知多半島への路線を出願するなど互いに牽制し合っていたが、最終的に愛電側が折れる形で決着し未成線となった。
- 東郊線/東陽町線
市内線計画が中止となったのちに常滑線を名古屋市内に乗り入れる最低限の路線として神宮前駅より新栄町に至る東郊線が計画された。
その後1913年に東陽町線に計画が変更されたが、不況による経営悪化に伴い未成線となった。
- 金山線
有松線の延伸が進むにつれ、当初建設した神宮前駅~有松裏駅間は単線区間と急曲線が多く残されていたため高速運転の障害となった。
そのため高速運転が可能な新線を建設し、そこから名古屋市中心部へ向かう路線が計画された。
しかし沿線の都市化が進み建設費の高騰が予想されたため、本星崎駅~大江駅間の支線計画が1932年に起業廃止、星崎町~神宮前駅の新線計画も沿線の高架化要求や運河の埋め立て、国鉄から分岐する貨物線との交差などの問題の折り合いがつかず、1958年に失効となった。
神宮前駅~金山駅間を予定していた新線からの延伸計画も頓挫したが、1934年に東海道本線東側沿いに経路を変更し、名鉄合併後の東西連絡線の一部となった。
- 岡田支線
名古屋電気鉄道の知多方面延伸計画の経由地とされていた岡田町(現:知多市)は知多木綿の産地であり、木綿輸送を目的とした路線の要望があったことから長浦駅より分岐する支線として計画された。
貨物輸送量を不安視した愛電側が想定輸送量を下回った場合補償するよう主張し、岡田町側も合意したものの想定輸送量の基準の折り合いがつかず頓挫してしまった。
- 内海線
現在の知多新線とは異なり常滑駅から内海方面に延伸する計画だった。
大正初期の経営危機により東陽町線・半田線と共に計画は中止になったが、半田線計画が知多鉄道に引き継がれたのに合わせて1927年12月6日に多屋駅から知多郡小鈴谷村大字坂井に至る西浦鉄道を出願するが、沿線のバス・貨物自動車との競合で経営困難とみなされ却下されてしまった。
終点となる坂井には武豊駅から伸びていた帝国火薬工業専用線(後の日本油脂専用鉄道専用線。1986年廃止)を地方鉄道に転用し延伸する武豊内海鉄道が計画されており、同線と連絡して武豊駅まで至る構想だったとされる。
国府駅より分岐し豊川駅に至る支線計画。奇しくも現在の名古屋鉄道豊川線とほぼ同様の経路だが、平井信号所~吉田駅間の線路共用に難色を示す豊川鉄道側に揺さぶりをかける陽動として計画された路線であり、線路の共用が決まった後の1928年に免許を返納している。
保有車両
旅客用電車は当初電動車を「電〇形」、付随車を「附〇形」とする独特の形式称号を採用していたが、1927年11月に形式称号が改訂され各形式初号車の記号番号を形式称号としている。
付随車は運転台を有していたが、形式記号は「サハ」であった。
機器類はアメリカ・ウェスティングハウス製のものを多く採用しており、電空単位スイッチ式間接非自動制御(HL車)が主流である。
開業時の木造単車電1・電2形、附1形(メイン画像の車両)は愛電時代に全車廃車となったが、残る車両は名古屋鉄道に継承されている。
電車
- 電1形・附1形
- 電2形
- 電3形/デハ1020形
- 電4形/デハ1030形
- 電5形・附2形・附2荷形/デハ1040形・サハ2000形・サハユ2010形・サハニ2030形
- 電6形/デハ1060形・デハ1066形
- 電7形・附3形/デハ3080形・サハ2020形・デハ3090形
- デハ3300形・デハ3600形・サハ2040形
- デハ1010形(碧海電気鉄道デ100形)
- デカ350形(電動貨車)
電気機関車
- デキ360形
- デキ370形
- デキ400形
貨車
鉄道以外の事業
創業時より電気供給事業を兼業しており、1912年2月11日より愛知郡鳴海町(現:名古屋市緑区)と知多郡西部7町に電灯供給を開始する形で開業。
鉄道事業と比べコスト面で有利な電力事業は大正期の経営危機には貴重な収入源として会社を支えた。
しかし東京電灯の名古屋進出に対し、自社で発電所を持たず大部分を東邦電力からの受電に依存する状況から料金面で対抗できず、東邦電力に統合するべく電力供給事業を愛知電力として分割。1931年にこれも東邦電力に統合された。
同時期の経営危機には電力部門を手放したことが痛手となり営業収入はピーク比で25%減少している。
自動車事業は1919年に乗合バスを運行していたが短期間で廃止となり、昭和初期の乗合バス事業の興隆に合わせて1928年12月に再開。国鉄熱田駅前~有松裏駅前間に始まり路線網を拡大していった。
1929年に幡豆郡吉田村(現:西尾市)に拠点を置く吉田自動車を子会社化し、1933年に愛電自動車に社名を変更。1934年には愛電が自社運行していたバス路線を全て愛電自動車に譲渡した。
1934年に運行を開始した本宿駅~蒲郡駅間は愛知県道38号周辺の景観が優れていたことから「箱根に似た景観を走行する路線」として「新箱根線」と命名。米レオ・モーター・カー・カンパニー製のシャーシに日本自動車製の流線形の車体を載せた観光バスを運行した。
名岐鉄道・愛知電気鉄道の合併に伴い1936年に名鉄自動車に改称。1947年に名古屋鉄道に吸収合併される形で解散した。
常滑線の開業時より沿線のリゾート開発をもくろみ、大野町・古見に海水浴場を開設。夏季の運賃収入が他季の約2倍にのぼったことから新舞子にも海水浴場を開設し、自社運営の無料休憩所を設けた。
1921年には新舞子で旅館「舞子館」を開業した新舞子都市開発を吸収合併し土地開発事業に進出。分譲住宅の販売や住宅展示会の開催を行った。
1927年には神宮球場、甲子園球場に並ぶ大球場として愛電球場を建設。後に鳴海球場として親しまれた。