関西鉄道とは、かつて大阪と名古屋を結んでいた鉄道会社である。鉄道国有法により国有化されたことで消滅した。
なお、関西鉄道の読み方は「かんさい」と「かんせい」の二つの読み方があり、資料によって異なる。
概要
建設までの経緯
官鉄(官営鉄道、政府直営の鉄道)は東京-神戸間に鉄道を敷設することとしたが、最初から東海道本線を建設すると決まっていたわけではなく、当時、経由するルートが東海道と中山道とで意見が割れていた。東海道ルートは箱根や鈴鹿などを除けば比較的平坦であるうえ、古くからの大動脈として東海道が走っており、横浜・静岡・名古屋などの大都市を通ることができるという利点があり、中山道ルートには大都市は少ないものの、有事の際に艦砲射撃を受ける恐れのないほか、海運に頼れる東海道沿道とは違い、船舶での大規模輸送が行えない内陸部の発展も見込めるという利点があった。議論と調査の結果、中山道ルートで建設することとし、東京(上野)-高崎・大垣-長浜-敦賀・長浜-(鉄道連絡船)-大津(大津港)-京都-大阪-神戸など、主要路線の建設に取り掛かった。
しかし、中山道ルートは地形が急峻であり、トンネルや橋梁、掘割や築堤などを多用しなければならず、東海道ルートよりも工期が長くなることや、特に費用面で大幅に不利であったことから、東海道ルートに変更されることになった。
東海道本線の建設にあたって、費用を抑える方針であったことから、大垣-長浜や大津-神戸などの既設線を利用することとし、名古屋-草津間は中山道沿いで建設されることとなった。
そこで割りを食ったのが名古屋-草津間にある旧東海道の宿場町であった。その宿場町を救済するために設立されたのが関西鉄道である。
路線の拡大
1889年12月、東海道本線の草津駅から分岐し、三雲駅まで最初の路線を開通。2ヶ月後に柘植へと延伸。その後四日市、桑名と東へ向けて延伸し、1895年に名古屋まで延伸したことで「名古屋-草津にある旧東海道沿道の町を結ぶ」という当初の目的が果たされた。
名古屋延伸を果たした関西鉄道の次なる目標は柘植より西進し、名古屋と大阪を結ぶことであった。その初めとして1897年に柘植-(伊賀)上野間を開通させ、大阪側では片町-四條畷間を運営していた浪速鉄道を合併、東からは上野、加茂、大仏(後に廃止)、奈良と、西からは長尾、新木津、木津と延伸を続け、1898年の11月についに最後の加茂-新木津間と寝屋川(信号所)-網島間が開通し、大阪と名古屋を結ぶ第二の目標も達成されることとなった。
その後、1900年に奈良-湊町間・王寺-桜井間・天王寺-京橋-大阪間の路線を保有していた大阪鉄道を合併し、大阪側のターミナルを湊町駅に移したほか、1904年には五条-和歌山間を保有していた紀和鉄道、高田-五条間を保有していた南和鉄道を、翌1905年には京都-桜井間を保有していた奈良鉄道を合併するなど路線規模は拡大を続けた。
しかし、1907年に鉄道国有法によってすべての路線が国有化され、関西鉄道は消滅することとなった。なお、南海電気鉄道の前身の南海鉄道を合併する話もあったが、国有化で無かったことになった。また、関西鉄道と同時に国有化された参宮鉄道と西成鉄道も、合併こそしなかったものの、経営上深い関わりがあった。
官営鉄道との競争
1898年11月に大阪-名古屋間が結ばれると、名阪間に急行列車が運行されるようになり、官営鉄道の東海道本線急行列車と競合関係になった。急行列車の運行開始に先駆けて、アメリカのピッツバーグ社製の新型蒸気機関車を導入し「早風」と名付けて運行した。
その後、徐々に競争は過激化し、関西鉄道が値引きすれば官鉄も値下げし、あちらがうちわをサービスとして配ればこちらは弁当を配るなどと明らかな過当競争に発展し、一時期は往復運賃が片道運賃より安いという気の狂った旅客誘引まで行っていた。関西鉄道は倒産覚悟の「やけくそ」で勝負しており、社長が「どうせ潰れるなら官鉄を潰してから」と言ったという逸話も残っている。
この競争は関西鉄道が国有化されるまで続いた。関西鉄道が国有化前に、「関西鉄道は地域的な鉄道であるから、合併は免除してほしい」といった内容の嘆願書を明治政府に送っていたが却下され、結局国有化された。これは民営のままにしておくとまた過当競争へと発展して面倒になると考えられたからだろうか。