概要
在位:紀元前306年~紀元前251年
55年に亘り在位して秦の優位を決定的にし、周を滅ぼした。
来歴
紀元前307年、秦の武王が子がいないまま急死し、弟たちによる後継者争いが起きた。魏冄が燕にいた公子稷を擁立。
紀元前306年、公子稷が即位し王となる。昭襄王は年少のため、母の宣太后が摂政となる。昭襄王は丞相の甘茂の申し出を受け武遂を韓に返還したが、これに反対していた向寿と公孫奭が甘茂を恨んで讒言するようになり、甘茂は斉に亡命した。
紀元前305年、公子壮が反乱を起こすが魏冄により鎮圧される。魏冄は宣太后、華陽君(羋戎)と共に秦の朝政を取り仕切った。
紀元前304年、昭襄王は冠礼(成人の礼)を行い親政を始める。
紀元前301年、孟嘗君の評判を聞き、弟の公子巿を斉に人質に出して孟嘗君に会見を求めた。
紀元前298年、斉の湣王は孟嘗君を秦に入国させた。昭襄王は孟嘗君を宰相として遇したが、「孟嘗君は斉の人ですから秦の宰相になっても斉の利を優先するに違いありません。帰しても斉の利の為に働き秦の脅威となるでしょう」と進言する者があり、昭襄王は孟嘗君を謀殺しようとした。
紀元前297年、孟嘗君は食客の力を借りて秦を脱出した(鶏鳴狗盗)。趙の楼緩が秦の宰相となった。趙はこれを脅威に感じ、楼緩を罷免して魏冄を宰相とするよう請うた。楚の懐王が秦に入朝したが、昭襄王は懐王を秦に拘留した。
紀元前296年、孟嘗君は斉の宰相となり、斉・韓・魏・趙・宋の軍を率いて秦に攻め込み、秦軍を函谷関で破った。昭襄王は河北および封陵の地を与えて和睦した。懐王が趙に逃げたが、趙が受け入れなかったため再び捕らえられ秦で死んだ。
紀元前295年、魏冄が宰相となった。
紀元前294年、幼馴染の向寿に命じて韓を討ち、武始を取った。
紀元前293年、魏冄は白起を将軍に推挙した。昭襄王は従わざるを得ず、向寿を解任し白起を左庶長に任じた。白起は目覚しい戦果を挙げ続ける。
紀元前292年、魏冄が病により宰相を辞めたため、客卿の燭寿をその後任とした。
紀元前291年、燭寿が罷免され魏冄が再び宰相となった。
紀元前288年、昭襄王は西帝を称した。魏冄を斉に遣わし湣王に東帝の帝号を贈ったが、斉がすぐに帝号を捨てたので昭襄王もとりやめた。
紀元前287年、罷免されていた魏冄を再び宰相に任じた。
紀元前285年、蒙武(蒙驁の間違い?)を登用し、韓・魏・趙・燕と共に斉を討たせた。
紀元前283年、魏を攻めて安城を取り、大梁に迫ったが、燕と趙が援軍を出したので秦軍は引き上げた。魏冄を罷免した。
紀元前281年、罷免されていた魏冄を再び宰相に任じた。
紀元前280年、趙の恵文王から「和氏の璧」を奪おうと思い、15城と交換しようと持ち掛ける。恵文王は藺相如に璧を持たせて秦に送り、藺相如は璧を無事持ち帰る(完璧)。
紀元前279年、白起に楚を討たせる。白起は楚の奥深く進撃し、鄢と鄧を取った。
紀元前278年、白起が楚の首都郢を奪い、楚の陵墓を焼き払った。楚は陳に遷都した。白起は武安君に封じられた。
紀元前276年、魏冄、華陽君、涇陽君、高陵君は「四貴」と呼ばれ絶大な権勢を誇る。白起に魏を討たせる。
紀元前273年、白起の攻撃で魏は衰退した。次は本格的に楚を討たせるつもりだったが、楚の使者の黄歇(後の春申君)に説得され、太子完(後の考烈王)と春申君が人質となり、和睦することとした。秦と楚はしばらく争うことがなかった。
紀元前271年、斉を討って剛・寿を取り、魏冄に与えた。昭襄王は宣太后一族の専横を指摘した范雎を登用し、進言を採用するようになった。
紀元前266年、昭襄王は范雎の仇を報いてやろうと魏の宰相の魏斉を匿っている趙の平原君を秦に招き、魏斉を引き渡すよう脅迫したが平原君は断った。そのため趙を脅迫したが、魏斉は魏に戻っていた。魏斉は信陵君を頼ろうとしたが信陵君が面会をためらっていると聞き自刎した。魏斉の首は秦に送られ、平原君は帰国することができた。
紀元前265年、2年前に亡くなった悼太子の代わりに公子柱(後の孝文王)を太子に指名した。范雎の奏上により宣太后が廃位、四貴も罷免され、関中から追放され封地で余生を過ごすこととなる。范雎が宰相となり応侯と号した。
紀元前263年、楚の頃襄王が病に倒れた。黄歇は范雎に太子完を帰国させるように願った。范雎からこれを聞いた昭襄王はまず黄歇を見舞いに返して様子を見させるよう命じたが、黄歇は太子完を帰国させ自分が残った。昭襄王は激怒したが范雎は黄歇の死を賭した態度に感服し、代わりに太子完の弟の公子顛(後の昌文君)を人質とするよう取り成し、黄歇も帰国できた。白起が韓を攻め、野王を陥落させた。韓の桓恵王は飛び地となった上党郡を秦に差し出して和睦するが上党の吏民は秦への従属を拒否し、上党守の馮亭が趙に上党を献上。
紀元前262年、王齕の軍が上党を占領。上党の人々は趙の長平に逃げ込み、王齕はこれを追って趙に攻め入った(長平の戦い)。趙の孝成王は廉頗を総大将に任命。
紀元前260年、王齕の軍は廉頗の籠城策で疲弊した。范雎は趙で「秦は趙括を恐れている。廉頗は対処しやすい」という偽情報を流し、これを聞いた孝成王は廉頗を解任して趙括を総大将に任命。范雎は白起を総大将に任じた。白起は趙軍を大いに破り、投降した趙兵20万を生き埋めにした。
紀元前259年、白起に再び上党を平定させた。しかし、白起の功績が大きくなるのを恐れた范雎の進言で韓・趙と講和した。
紀元前258年、王陵に邯鄲を攻めさせたが落ちなかった(この時、人質だった子楚とその子政が趙人に殺されそうになるが、呂不韋に救われた)。昭襄王は将軍を白起に交代させようとしたが白起は断り、范雎が懇請しても辞退し、ついには病気と称し自宅に引き籠った。
紀元前257年、昭襄王は王陵を更迭し王齕に代わらせたが邯鄲は落ちず、秦軍は多大な損害を受けた。白起は王齕の敗戦を「だから言わぬことではない」と批判し、それを聞いた昭襄王は怒り、白起を陰密の地へ移した。范雎に推挙された鄭安平が王齕への援軍として邯鄲を攻めるが、2万の兵と共に趙に降伏した。
紀元前256年、昭襄王は白起に剣を与えて自害を命じ、白起は自刎した。
紀元前256年、張唐に鄭を討たせた。邯鄲を攻略中の王齕に増兵を行ったが、落とすことができず退いた。張唐に趙を討たせ寧新中を取った。楊摎に韓を討たせ陽城・負黍を取った。周の赧王と分家の西周の文公が諸侯と結んで秦を討ったが、楊摎に西周を討たせると文公は降伏した。
紀元前255年、西周の民は東周君の領地に逃げ、周の九鼎は秦に接収され、周は滅亡した。范雎が河東郡守に推挙した王稽が他国と通じた罪で誅殺され、范雎もそれに連座して処刑された。
紀元前254年、天下の諸侯が秦に入朝したが魏が入朝しなかったため、楊摎に魏を討たせ呉城を取った。
紀元前253年、秦の最初の都だった雍城で上帝に祭祀を挙げた。
紀元前251年、昭襄王は75歳で薨去した。
紀元前250年、昭襄王の喪が明けて孝文王が正式に即位したが、3日後に薨去した。