ジョジョの奇妙な冒険:第6部「ストーンオーシャン」の重大なネタバレを含みます。これからコミックやアニメを楽しみにしている方は閲覧注意。
知性(ちせい)とは―
- 物事を知り、考え、判断する能力。転じて知識を活かして知的な言動が出来る能力。
- 比較・抽象・概念化・判断・推理などの機能によって、感覚的な事象を認識する精神的能力。
概要
ジョジョの奇妙な冒険:第6部「ストーンオーシャン」に登場するフー・ファイターズ / F・Fの台詞
これは彼女(?)が悟った「存在」の意思表示。
新生物「フー・ファイターズ(F・F)」とは
湿地帯に生息するプランクトンに、プッチ神父が自身の能力で作ったスタンドと記憶のDISCを与えた事で誕生した新生物。
元々はプッチ神父が能力で集めた「スタンドのDISC」を守護させる目的で誕生させた新生物。フー・ファイターズ自身は、与えられた命令の意図は関係なく、高い「知性」を与えてくれた恩義のために、(監獄の敷地内にある)DISCの保管場所である農場の湿地帯で何年も生きていた。
主人公・空条徐倫との戦いを経て、それまでなかった『良心≒あたし』の新しい生き方で行動するようになる。
人間(女性)の体でも「プランクトン」を基にした生体のため、要(かなめ)となる「水」に不自由する生活へ変化した。水分補給を欠かさなければ、体の再生・ある程度の身体変化など非常にしぶとく逞しい生命力を発揮できるのだが、逆に水不足や身体の水分を大量に失うと一気に窮地へ陥る危うさも併せ持った生態となる。
以後の活動では、宿主である生物としての誕生は「知性」が低い浮遊生物のため、自身(あたし)を「プランクトン」と呼ばれるのを嫌悪し、高い「知性」をもつ自身(あたし)の能力名でもある「フー・ファイターズ」と呼ばれる事に拘る。それもあって主人公たちからは「F・F(エフ・エフ)」の愛称で呼ばれる。
「F・F(エフ・エフ)」の行動理念には、主人公・空条徐倫の恩義に報いる他、その根幹には「知性」への執着がある。今、自身(あたし)が考えて発言・行動が出来ているのは、偶然で生まれた事象でも「知性」が深く結びついていると感じていた。
何処から知ったのか、ある天文物理学者の学説―
『この自然界で確率的にも生命が偶然誕生したと考えるのは間違っている。この宇宙には「知性」という「力」がすでに存在していて「生命のもと」を形づくった』
を引用するほど「知性」がある事に誇りと信条を持つのであり、同時に「知性」が失われる事を何よりも恐れている。
それは自身(あたし)の生命よりも優先する事であり、主人公たちのような他の生物とは違った道筋で、自身(あたし)が世界で生きている事について悟っていくのだった。
F・F(エフ・エフ)にとって「あたし」とは
始めに、「あたし」という存在が最後の時まで生存しているかどうか、これが大切だと「F・F(あたし)」は悟っていた。
肉体的にという意味ではなく、精神的に「F・F(あたし)」の「知性(こころ)」が存在しているという意味で。
その思想は、彼女(?)が己の「生命」よりも「知性」に傾倒していた様子からうかがえる。
一人(正確には一群体)で農場の湿地帯で過ごしていた「フー・ファイターズ」から始まり、主人公・徐倫たちと生活を共にし、その「思い出」から力(エネルギー)も湧くほどに、精神の成長を感じていた「F・F(あたし)」という存在。
「F・F(あたし)」という存在は、己の「生命」よりも己の「知性」を大切にしており、同時にそれが失われる事を何よりも恐れていた。
なぜならば、こうして「あたし」が感じて考えて動けているのは、何処かの天文物理学者が唱えた「生命」の誕生よりも先に生まれていた「知性」があるからだと信じていたからだ。
生物としての誕生は「知性」が低い浮遊生物から、偶然によるもので高い「知性」をもって新しく誕生した「あたし」という存在。
これが今までの「あたし」が生きていた世界だった。
そんな始まりから奇妙な冒険を経て、(非情にも創造主である)悪の知略に嵌ってしまった終わりであったが、最後の瀬戸際で「知性(あたし)」が選んで進んだ道筋から、次につながる生命(きぼう)を託せたことで、ハッキリとした形で「あたしは生きていた」と最後に存在証明することが出来た。
これは犠牲ではなく覚悟で道を照らした行動であり、それが出来た「F・F(あたし)」は、最後の時に存在証明できた事を誇らしく感じているようだった。
その姿は、生物として誕生した「フー・ファイターズ(あたし)」ではなく、これまでの「思い出」を育んで生きてきた「F・F(あたし)」の姿だった。
その姿をみて、もしかしたらまだ生き延びられるかもしれないと狼狽する恩人に対し、それで生き残ったとしても、きっと「フー・ファイターズ(あたし)」だが「F・F(あたし)」でないと、迷える子どもへ正しい道を教える心優しい暖かな女性のように諭してあげた。
" これで…いいのよ "
最後の最後に幸福とはこういう事と、信頼する者に「さよなら」を言える「生命≒あたし」で存在していたと信頼を抱いて、まるでそよ風を感じさせる穏やかさと黄金のように眩しいぐらい誇らしげな姿で、新生物であった「F・F(あたし)」は生きていたと「知性(あたし)」がハッキリと感じて逝けるのだからと…。
関連イラスト
備考
主人公たちの仲間「F・F(エフ・エフ)」が物語から退場する場面。
敵の罠に嵌って、自身も含む味方が命の危機に瀕してしまったが、最後の力で仲間を救出したF・F(エフ・エフ)。だが、そのために自分の生命が終わりになっても本望の行動だった。この一幕が第6部「ストーンオーシャン」の中で、特に感動名場面として心に残る読者が多いのではないか。
攻防の末に世界が変わってしまった物語のラストで雨が降る場面。それは元の姿が変わってお互い初対面であっても、まるで「引力」のような力で再び集った仲間たちを祝福するかのように、物語を最後まで読んだ読者は何か優しさも感じるような光景。きっと生物の誕生よりも存在するという「知性」を確かに獲得していた新生物「F・F(エフ・エフ)」も、何かに生まれ変わって一巡後の世界に生きていると感じてしまうような構図だからだろう。
これもあってか、「雨といえば水」であり、「水といえばF・F(エフ・エフ)に欠かせない事柄」であり、物語ラストの雨が降って終幕する場面に、読者が「雨=水=F・F(エフ・エフ)」を表しているのではと考察してしまう所以だろう。
関連項目
ブローノ・ブチャラティ(漫画:GIO☆GIO_黄金の風より)・・・最後の終わりがチョッピリ長く続く人生だったが、己の命よりも仲間たちのため、それは黄金のような道筋を進める事に幸福感を抱いて、人生の間際に信頼する者へ希望を託して逝った人間の鑑。
最後にさよならが言えて良かった…徐倫
これでいい徐倫
これで…いいのよ