『鎌倉殿の13人』第27話「鎌倉殿と十三人」あらすじ
前の鎌倉殿・源頼朝亡き後、後継者となった頼家は力不足を露呈、祖父・北条時政と乳母父・比企能員の対立も権力争いの火種となりつつあった。
そのことを憂えた北条義時は梶原景時と語らって、景時自身と文官(大江広元、三善康信、中原親能、二階堂行政)の5人で裁判を処理、裁可を頼家に委ねることを決した。
会談の結果を義時は比企能員と父・時政に伝え両者の賛同を得るが、対立を深める両者は自身と支持者となる豪族を評定衆に加えるよう要求、義時と景時の思惑を超えて評定衆は13人となった。
北条時政と三浦義澄・義村親子の多数派工作
この間、多数派を握ろうと時政は三浦義澄・義村親子と接触、義澄の評定衆参加の承諾を得、梶原景時と対立を深めつつある和田義盛を評定衆に加えることを話しあった。
時政は他にも人選を進めて2人の宿老の名を出したほか、義村にも参加を求めるが「三浦が2人もいるのはマズい」と断られてしまう。
時政「佐々木(秀義)のじいさんは?」
義村「もう死にました(史実ではこの15年も前に平氏との戦いで討死している。享年73)」
時政「千葉(常胤)のじいさんは?」
義村「もうすぐ死にます」※実際の台本にはこのセリフは無く、山本耕史によるアドリブ
「じいさんはやめておきましょう」
このセリフが出たとたん、SNS上で「こんなこと大河で真顔でポンポン言えるのは山本耕史だけだし、こんなことヤマコーに言わせられるのは三谷幸喜だけ」と書かれ、またしても「さすがメフィラス義村」と書かれてしまった。
なお実年齢が既に還暦を過ぎて孫も居る時政や義澄も世間的に(平均寿命が低い鎌倉時代では尚更)には「じいさん」に分類される筈だが、誰もそのことについてはツッコんでいない。
この回は何より世間的にも、「若手や気鋭が大御所やご隠居に押し込められて、世代交代の滞った現代の永田町や霞ヶ関に対する痛烈な皮肉」「派閥争いの末に、政治にやる気がないタレント議員や居眠り議員などただ数合わせの為だけに増やした現在の衆議院・参議院」としても受け取られ、参議院選挙を終えた世情の風刺に聞こえた視聴者も少なくなかったとか。
が、
第28話「名刀の主」で、千葉のじいさんが元気よく登場し、侍所別当(長官)の梶原景時を糾弾する訴状に筆頭格で署名、最後の奉公とばかりに
常胤「これは梶原と一戦交えることになりそうだな」
「あやうくお迎えの支度を始めるところであったわ。」
「またもや誉れある戦をせぬかと声がかかれば、のらない手はない」
と、戦意をたぎらせ、義村も
義村「加わっていただき、かたじけのうございます」
と、前言を翻してぬけぬけと頭を下げるところが描かれた。
なお、もうすぐ死ぬと言われた千葉常胤は、評定衆のうち1200年に病死した三浦義澄や安達盛長に遅れること1年後の1201年に、84歳の長寿を全うしている。
そうして人をじいさん呼ばわりした義村であったが、48話では逆に北条朝時から「じじいうるせぇんだよ」とか「訳わかんねぇよ、じじい」と言われ、「誰が言ったー!」などと激高していた。
この頃の義村は推定60歳前後であり、このドラマには出てこなかったものの、彼の孫でもある北条泰時の長男・時氏はこのとき19歳で宇治川の渡河作戦で軍功をあげるなどこの陣中にも確実に同席、軍議にも参加していた可能性もあり、その意味でも実際じじいではあるのだが(ちなみに時氏は、1230年、祖父・義村、父・泰時よりも早く亡くなり、義村は承久の乱から18年たった1239年まで生きて、長老として北条泰時の治世を支えることになる)。
秀義や常胤を雑に扱った報いを20数年越しに受けた義村なのであった。
…ちなみにこの回のタイトルは「報いの時」である。
ちなみに
2004年度大河ドラマ『新選組!』でも似たようなやりとりがあり、
対立する上総広常(佐藤浩市)演じる芹沢鴨と、メフィラス義村(山本耕史)演じる土方歳三が互いの派閥に属する隊士を次々に副長助勤に推薦するシーンが描かれた。
この時点では両派合わせて10人前後しかおらず、役職と言っても平隊士とさほど変わらないが、
「私は別に副長助勤でなくても」と穏やかに言っていた三善康信(小林隆)演じる井上源三郎がたった一人の平隊士になることに
「私もできれば副長助勤に」と泣きを入れるオチがついてしまった。